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しょこ@愛雅色
152
羽海汐遠
10,203
第12話 こころの隕石
朝は、何も決めない顔で来た。
山の線はやわらかく、
畑の土は昨日の湿りを少しだけ残し、
家の前の板は夜露を吸って、まだひんやりしている。
何も起こらないように見える朝だった。
でも、
ミュオの胸の奥では、
昨日までの全部が静かに重なっていた。
落ちてきた夜。
おばあちゃんの根菜。
増えた星。
緑へ寄った昼のひかり。
荒れた空。
折れた葉。
短く残ることば。
何も消えていない。
消えていないのに、
今朝の胸は不思議なくらい静かだった。
詩が来る、
来ない、
という騒ぎ方ではない。
深いところで、
ようやく水が澄んだあとの静けさに近かった。
ミュオは戸口へ立ち、
畑を見た。
崩された畝は、
もう前の形ではない。
それでも、おばあちゃんと里の男が直した手の跡があり、
昨日よりは少しだけ、土が落ちついて見えた。
欠片の混じった畝も、
そこにある。
けれど、以前みたいな強い呼びかけはしない。
乾いたひかりは土の下へ沈み、
自分の役目を終えかけた道具みたいに、
おとなしくしていた。
おばあちゃんが、
台所から椀を運んでくる。
「起きてる顔だねえ」
ミュオは振り向く。
「うん」
それだけ言った声が、
自分でも少しちがって聞こえた。
こわさがないわけではない。
迷いが消えたわけでもない。
でも、
もう迷いだけに押されてはいなかった。
おばあちゃんは、
その声を聞いて目じりのしわを深くした。
「朝のうちに見に行くかい」
ミュオは、うなずいた。
山へ向かう道は、
何度も通ったせいで、
土のやわらかい場所と石の多い場所が足へ入っている。
そばかすの子どもが、
途中で追いついてきた。
頬を赤くして、
膝の擦りむき跡を見せながら、
息を弾ませている。
「おれも行く」
おばあちゃんは笑う。
「またかい」
里の男も、
少し遅れて加わった。
肩の広い体に、
朝のまだ乾ききらない作業着。
ぶっきらぼうな顔のまま、
でも今日は黙って後ろを歩く。
四人で山を上る。
最初の落下跡へ着くころには、
陽が少し高くなっていた。
割れた殻は、
斜面のまんなかで静かだった。
第八話の夜みたいな脈もない。
第七話に感じた乾いたひかりも、
もうほとんど表へ出ていない。
ただ、ある。
長く置かれた石のように、
そこで黙っている。
ミュオは近づいた。
しゃがんで、
殻へ触れる。
冷たい。
その冷たさは、
もう帰還の命令を持っていなかった。
引く糸もない。
押す気配もない。
ただ、
長い時間を終えた石の冷たさだけがあった。
ミュオは目を閉じる。
ここから来た。
たぶんそうだ。
でも、
ここへ戻れと言っていたものは、
もういない。
残っているのは殻だけだ。
ことばを運ぶための器だったもの。
落ちてきて、
割れて、
役目を終えて、
ただの石になりかけているもの。
おばあちゃんが後ろで言う。
「静かだねえ」
ミュオは振り向かずに答えた。
「おわった」
里の男が小さく息を吐く。
そばかすの子どもは、
少しこわごわ石を見ている。
「もう、こわくないの」
ミュオは、
殻から手を離した。
「こわいの
ちがうとこ いった」
その言い方に、
子どもはよく分からない顔をした。
けれどおばあちゃんだけは、
うっすらとうなずいた。
ミュオは斜面の土を見る。
雨で流れた跡。
欠片が埋まった場所。
草の根が少しずつ戻ってきた場所。
ここにはもう、
空へ帰る道は残っていない。
そのかわり、
土へ混じったものがある。
畑へ向かったもの。
暮らしへ混ざったもの。
残ってしまったもの。
それが何か、
ミュオはもう分かっていた。
みんなで畑へ戻る。
昼前のひかりが、
葉の上へまっすぐ落ちている。
何も変わらないように見える。
でも、
ミュオには分かった。
何も起きていないのではない。
起きたものが、
いまは沈んでいるだけだ。
おばあちゃんは、
欠片の混じった畝の前で立ち止まる。
小柄な背。
茶色のもんぺ。
土のついた指。
その見た目の全部が、
ここまでの日々をちゃんと持っていた。
里の男は腕を組み、
子どもはひざをついて畝をのぞく。
みんな待っている。
急かさず、
でも見ている。
観測ではない。
見届ける側の目だった。
ミュオは、
その目の前へ立った。
灰色の羽毛へ昼のひかり。
首もとの紫は、
今日の静けさの中で、やわらかく深い。
胸へ手を当てる。
ここにある。
でも、ここだけじゃない。
おばあちゃんの台所にもあった。
里の男が無言で立て直した支柱にもあった。
子どもの「先に言って」にもあった。
畑のやり直された土にもあった。
短く残った、じいさんの文字にもあった。
心は、胸だけに入っているものじゃない。
触ったもの。
残したもの。
受け取ったことば。
その全部へ少しずつ散って、
それでも、自分の中へ戻ってくる。
ミュオは、
ようやく、
ここにいる理由を見つけた気がした。
帰るためではない。
見せるためでもない。
空を動かすためだけでもない。
残すためだ。
ことばを、
暮らしのほうへ残すため。
誰かの中へ、
土の中へ、
景色の中へ。
ミュオは、静かに息を吸った。
五。
七。
五。
数は、
今まででいちばん静かに来た。
急がない。
押さない。
引っぱらない。
置くための数だった。
ミュオは読んだ。
「ここに いる
ことばを つちへ
のこすため」
言い終わる。
すぐには何も起きない。
空は静かだ。
畑も静かだ。
子どもが息をとめる音だけが、少し遅れて聞こえる。
それでいいと、
ミュオは思った。
でも、
静けさはそこで終わらなかった。
まず、
畑の土が息をした。
ほんとうに息をしたわけではない。
けれど、
畝の表面がごくわずかにほどけ、
ひかりの入り方が変わる。
欠片の混じった場所だけではない。
となりの畝も、
そのまたとなりも、
やわらかく同じ方向を向く。
そして、
土の割れ目のきわで、
小さな緑がひとつ立った。
新しい芽だった。
まだ折れた葉の影が残る場所のすぐそば。
昨日まで何もなかったところ。
踏まれて、乱れて、それでも諦めきらなかった土の下から、
細い芽がひとつ出た。
子どもが声を上げる。
「出た」
里の男の目が、ほんの少し見ひらかれる。
おばあちゃんは、
すぐしゃがみこみ、
その芽を見つめる。
目じりのしわが、
いちばん深くなる。
泣いてはいない。
でも、
何年も畑にいて、
こういう小ささに何度も救われてきた人の顔だった。
「新しいねえ」
その声のやわらかさが、
土へ沈む。
ミュオは空を見た。
昼のひかりは変わらない。
緑に寄ることもない。
揺れることもない。
でも、
高いところに、
何かが残っていた。
前に増えた星たちは、
夜になると現れるだけの灯ではなくなっていた。
昼の空には見えないはずなのに、
そこに場所だけがあると分かる。
見える、
ではない。
覚えている、
に近かった。
夜になれば、きっと分かる。
以前のように、
ぽつりと増えた灯ではなく、
並びの中へ馴染んだ残り方で。
押しこまれる星でもなく、
突然差しこまれる灯でもなく、
前からそこにいたみたいに、
けれど前とはちがう意味を持って残る星。
ミュオは、
そのことがなぜか分かった。
ことばが残ったからだ。
空へ打ち上げて変えるのではなく、
ことばの残りとして、
夜の中へ居場所を持つ。
それが今度の残り方だった。
おばあちゃんが振り向く。
「読めたねえ」
ミュオはうなずいた。
「きた」
短い返事だった。
でも、
その一音の中に、
第十一話まで来なかった詩の時間が全部入っていた。
子どもが芽をのぞきこみながら言う。
「これ、ミュオの芽」
里の男が鼻を鳴らす。
「畑の芽だ」
そのぶっきらぼうさに、
おばあちゃんが笑う。
「そうだねえ。畑の芽だ」
でも、
その笑いの中には、
ミュオのことばもちゃんと混ざっていると分かる響きがあった。
午後、
おばあちゃんは山の石を見に行こうと言った。
四人でもう一度、落下跡へ向かう。
殻はやはり静かだった。
昼のひかりを受けても、
返すものがない。
里の男が、
靴の先で少しだけ土を払う。
「ただの石だな」
ミュオは近づいて、
もう一度触れた。
冷たい。
重い。
それだけだった。
でも、
それでよかった。
ただの石になった。
帰還を押しつけるものでもなく、
命令を残すものでもなく、
役目を終えた器として、
そこにいる。
ミュオは、
その石に向かって小さく頭を下げた。
別れではない。
敵意もない。
終わったものへ、
終わったと言うための礼に近かった。
山を下りる途中、
風が木立を抜けた。
その音を聞いたとき、
ミュオは第九話のおばあちゃんの話を思い出した。
風がいい。
短くて、残ることば。
うまいな。
短くて、消えないことば。
言葉は残る。
土にも。
紙にも。
人にも。
そして、たぶん空にも。
夜。
縁側へ並んで座る。
おばあちゃん。
ミュオ。
里の男は少し離れた柱のそば。
そばかすの子どもは、
眠そうなのにがんばって目を開けている。
夜がゆっくり降りる。
そして、
星が出る。
ひとつ。
ふたつ。
いつもの並び。
そのあとに、
以前ミュオが増やした星が、
今夜は前とちがう出方をした。
ぽつり、と現れるのではない。
最初から夜の深さの中に場所があって、
暗くなるにつれて、
そこが自然にひらくみたいに灯る。
違和感がない。
でも、
前からの星とまったく同じでもない。
見る者が見れば分かる。
残っている。
そして、
残り方が変わった。
ことばの残り方に似ていた。
急に押しつけてくるのではなく、
あとから思い出した時に、
ああ、ここにあったのかと分かる残り方。
おばあちゃんが、
空を見て小さく言う。
「馴染んだねえ」
里の男も腕を組んだまま、
黙って見ている。
否定する顔ではない。
ただ、
覚える顔だ。
子どもは指をさしかけて、
でも途中でやめた。
大きな声を出さないほうがいい気がしたのだろう。
ミュオは、
その星を見上げた。
もう、帰るための灯には見えない。
ここで残った、
ことばの灯だった。
おばあちゃんが、
湯のみをミュオへ渡す。
「これから、どうする」
その問いは軽い。
でも、
中身は軽くない。
ミュオは湯のみのぬくもりを受け取り、
しばらく考えた。
帰還か残留か。
その言い方なら、
第十一話まではまだ迷っていただろう。
でも、
いまは少し違う。
帰らない、
と強く言いたいのではない。
ここにいる理由がある、
というほうが近い。
ミュオは言った。
「ここで
のこす」
おばあちゃんが目を細める。
「何をさ」
ミュオは、
夜空と畑の両方を見る。
「ことば」
それから少し考えて、
もうひとつ足す。
「くらしの なかに」
そのひと言で、
胸の奥がすとんと落ちついた。
見つけた、
と思った。
ここにいる理由は、
この畑で大きなことを起こし続けるためではない。
空を揺らすためでもない。
不思議を見せるためでもない。
暮らしの中へ、
ことばを残すため。
土に沈むことば。
人に残ることば。
短くても消えないことば。
おばあちゃんは、
深く笑った。
目じりのしわが、
今日いちばんやわらかくほどける。
「じゃあ、忙しいねえ」
その言い方が、
とてもよかった。
使命、とも、
運命、とも言わない。
忙しいねえ、と言う。
畑の続きみたいに言う。
ミュオは、
羽先を小さく揺らした。
「うん」
里の男が、
柱にもたれたまま低く言う。
「明日、水やり早いぞ」
子どもが吹き出す。
おばあちゃんも笑う。
ミュオも、
くちばしの先を少し上げた。
それは、歓迎だった。
特別な存在としてではなく、
明日の水やりの中へ入る歓迎。
夜空には、
馴染んだ星がある。
畑には、
新しい芽がある。
山の石は、
もうただの石だ。
でも、
ここまでに読まれたことばは、
どこにも消えていない。
風がいい。
うまいな。
先に言って。
ここに いる。
短いことばたちが、
家の板にも、
畑の土にも、
夜の並びにも、
それぞれ小さく残っている。
ミュオは湯のみを持ったまま、
最後にもう一度だけ空を見上げた。
星は何も言わない。
けれど、
もう無言のまま遠いだけの場所ではなかった。
土も何も言わない。
けれど、
そこへ置かれたことばを、
ちゃんと抱えてくれる。
その両方のあいだで、
ミュオはようやく、
自分の場所へ立った気がした。
そして、
誰に見せるでもなく、
誰かを驚かせるでもなく、
静かに口の中で五七五をなぞる。
「こころって
のこした ことばの
いきる ばしょ」
声には出さない。
でも、
それで十分だった。
その句は、
もう空へ押しあげなくても、
土と胸のあいだで、
ちゃんと残っていくと分かったからだ。
コメント
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みぅです🤍🥀 第12話、読み終わりました。 静かで、深くて、胸の奥がじんわりしました。 「ここにいる理由」を見つけたミュオの姿が、すごく尊かったです。 ことばを“暮らしの中にのこす”——それが土に芽を生やして、星の残り方さえ変えてしまうっていうのが、本当に美しかった。 「こころって のこした ことばの いきる ばしょ」 この句を誰にも見せずに、自分の中でだけ残すミュオの選択が、いちばん沁みました。 闇をただ通るだけじゃなくて、ちゃんと土に落ちて根づく話が好きです。 素敵なエピソードをありがとうございました。