テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第15話『星屑シュガーと夜更かし姫』
夜の帳がすっかり降りきった頃。
喫茶猫又亭の壁に掛かった古時計が、午前零時を告げる音を鳴らした。
その音とほぼ同時に、扉が――
カラン
と、控えめに鳴った。
「いらっしゃい」
マスターは振り返らず、いつもの調子で声をかける。
もう、誰が来たのかは分かっていた。
入ってきたのは、白いワンピースを着た少女だった。
年の頃は十代半ばほど。
肩までの黒髪は少し乱れ、目の下には薄い隈が浮かんでいる。
「……こんばんは、マスター」
「今夜も起きてたんだね、姫」
少女は少しだけ口を尖らせる。
「“姫”って呼ぶの、やめてって言ってるでしょ」
「でも、夜にしか現れないし、眠らないし。
それに――」
マスターはカウンター席を指差した。
「そこ、きみの指定席だろ?」
少女は小さくため息をつきながら、カウンターの端に腰掛ける。
その席だけ、月明かりがちょうど差し込む特等席だった。
「……いつもの、お願い」
「星屑シュガー入りだね」
マスターはそう言って、豆を挽き始める。
コーヒー豆の音が、静かな店内に心地よく響く。
少女の名は、ユイ。
猫又亭に来るようになったのは、もう半年ほど前からだった。
必ず、日付が変わったあと。
必ず、眠そうな顔で。
必ず、砂糖を入れすぎたコーヒーを注文する。
普通なら「甘すぎる」と顔をしかめる量を、彼女は何でもない顔で飲み干す。
「……ねえ、マスター」
カップを両手で包みながら、ユイがぽつりと言った。
「人ってさ、どうしたら眠れるの?」
「それはまた、難しい質問だね」
マスターは微笑みながら、星の形をした砂糖を三つ、カップに落とした。
きらり、と一瞬だけ光る。
「目を閉じたら、自然と……」
「それができないから、聞いてるの」
ユイはカップの中を覗き込みながら、静かに言った。
「目を閉じるとね、何も浮かばないの。
夢も、音も、色も。
ただ、真っ暗で……怖いの」
マスターの手が、一瞬止まる。
「……夢を、見なくなったんだね」
ユイは、こくりと頷いた。
「いつからか、分からない。
でもね、眠るたびに“何もない場所”に落ちていく感じがして……
だから、起きてるほうがマシなの」
夜更かし姫。
それは、冗談半分でマスターがつけた呼び名だった。
けれど、本当の意味は――
眠る場所を失った少女。
「ねえ、マスター」
ユイは星屑シュガーが溶けていくのを、じっと見つめていた。
「今日の砂糖、どうして“星屑”なの?」
「それはね」
マスターはカウンター越しに、優しく答える。
「それはそろそろ君が眠れるように作ったのさ」
「ちなみに夢の欠片でできてるよ」
「……嘘」
「さあ、どうだろう?」
マスターの金色の瞳が、少しだけ細まった。
「夢を失った人の代わりに、甘さだけ残したんだ。
だから、眠れない夜にはよく効く」
ユイはカップを口に運び、一口飲む。
「……今日も、甘すぎる」
そう言いながら、どこか安心したような顔をした。
その夜、ユイは珍しく長居をした。
時計の針が、午前二時を回る頃。
「ねえ、マスター」
「なんだい」
「私が眠ったら……ここに、来れなくなる?」
その問いに、マスターはすぐ答えなかった。
代わりに、カウンターを丁寧に拭きながら、静かに言う。
「眠れるようになったら、ここに来る必要はなくなるかもしれないね」
「……そっか」
ユイは少し寂しそうに笑った。
「でも、それでいいんだよね」
「うん。とても、いいことだ」
しばらくの沈黙。
やがて、ユイのまぶたが、ゆっくりと落ちていく。
「……眠く、なってきた」
「星屑シュガーが効いたみたいだ」
「怖いけど……」
彼女は小さく息を吸い、
「……眠ってみる」
そう言って、カウンターに突っ伏した。
その瞬間。
ユイの髪の先から、淡い光が零れ落ちる。
それは、小さな星のように瞬きながら、空気に溶けていった。
マスターは何も言わず、そっと毛布をかける。
「おやすみ、夜更かし姫」
しばらくして――
ユイはスッキリした顔で家路に帰って行った
カウンターの上には、空になったカップと、
星屑シュガーが一粒、残されているだけ。
マスターはそれを指先でつまみ、微笑んだ。
「夢を、取り戻せたみたいだね」
窓の外では、夜が少しだけ薄くなり始めていた。
今夜も、喫茶猫又亭はまったりと営業中。
そして、またひとつ――
眠れる場所を見つけた客が、静かに帰っていった。