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放課後の相談室は、窓の外の夕陽に照らされ、机の影が長く伸びていた。ドアが静かに開く音。日下部は顔を上げる。
「……入っていい?」
おずおずと顔を覗かせたのは、背を丸めた男子生徒だった。
視線は日下部をかすめ、すぐ床に落ちる。
「好きにしろ」
素っ気ない言葉。でも拒絶ではない。
生徒は小さく息を吐き、扉を閉めてからゆっくりと椅子に座った。
数秒、言葉が降りてこない。
机を見つめたまま、彼は唇を震わせる。
「……自分のこと、好きになれないんです」
ようやく漏れた声。
日下部は無理に続きを急かさず、ただ待った。
「鏡、苦手で。
毎朝、映る自分が嫌いで……
“なんでこんな顔なんだろう”って思うし、
何をしても中途半端で、
みんなみたいに、ちゃんとできないし……」
言葉は形を失いながらも、次々と溢れた。
「だから……誰かに好かれる未来なんて、
想像できなくて。
努力しても……
結局“だめな自分”のままな気がして」
そこで言葉が止まった。
重く垂れ込めた空気を破るように、日下部が問いかける。
「じゃあさ。
“嫌いな自分”のどこが、そんなに嫌なんだ?」
真正面からの言葉に、生徒は目を揺らした。
けれどすぐには答えられない。
自分が何に苦しんでいるのか、
ちゃんと考えたことがなかったから。
沈黙が長くなる。
日下部は目線を少しだけ柔らかくした。
「……鏡だけが、お前じゃないだろ」
生徒の肩が、わずかに動いた。
日下部は続ける。
「お前が誰を好きになるのか、
何に傷ついて、何を大事にしてるのか……
そういうの全部含めて“お前”なんじゃねえの?」
淡々とした声。
説教でも、慰めでもない。
ただ、目を逸らさず事実を言うだけ。
「それにな」
日下部は少しだけ視線を窓に向ける。
「自分を嫌うのって……案外、楽なんだよ」
生徒が顔を上げる。
「嫌えば、変わろうとしなくて済むから。
“どうせ自分なんて”って言えば、
挑戦しなくていい理由になる。
逃げるのにちょうどいい言い訳だ」
図星を刺されたように、生徒の指先が震えた。
否定できない。
ずっと、そうしてきたから。
日下部は息を吐く。
「嫌いな自分と向き合うのって、
実は……すげぇ怖いよな」
生徒は強く唇を噛む。
「でもさ」
日下部は少しだけ眉を下げる。
「“好きになれない自分”を連れて、
今日ここに来たんだろ?
それって……
もうちゃんと前に進んでるってことじゃねえの?」
目元がじんわり熱くなる。
涙じゃない。
でも、落ちそうだった。
生徒は……ほんの少しだけ、背筋を伸ばした。
日下部は気づかないふりで、視線を窓へ戻す。
「嫌いなままでいいよ。
でも、それをちゃんと抱えて生きてるなら……
それは、ちょっとだけ誇っていい」
夕陽が沈む。
相談室に夜が近づく。
小さな椅子に座った少年は――ほんの少しだけ、自分を許せた気がした。