テラーノベル
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放課後の空き教室。
相談者は椅子に座るなり、困ったように笑った。
「俺、嫌なことをされた相手のことを、嫌いになりきれないんです」
「嫌いになりたい?」
「なりたいっていうか……嫌いになれたら、もっと楽なのにって思います」
遥は続きを促すように、視線を向けた。
「普段は普通に話すし、面白いことも言うし、一緒にいて楽しい時もあるんです。でも、たまに酷いことを言われる。みんなの前で馬鹿にされたり、俺が嫌がってるのを分かってて、わざと同じことをされたり」
「嫌だって言った?」
「言いました。でも、『そんなつもりじゃなかった』って言われて。俺も、そいつがいつも悪い奴じゃないのは分かってるから、それ以上言えなくて」
「それで、また普通に話すんだ」
「うん。普通に話せるんです。だから余計に分からなくなる。俺が気にしすぎなのかなって」
遥は机の上に目を落とした。
「本当に嫌いだったら、もう関わらなければいいじゃないですか。でも、そいつのことを嫌いになりきれない俺もいるし、楽しかった時のことも覚えてるし……嫌なことをされた時だけで、そいつの全部を決めていいのかなって」
「全部を決めなくても、嫌だったことは嫌だったままでいいんじゃない」
「でも、嫌だったって思い続けてたら、相手のことを悪く考えるようになりません?」
「なるかもしれない」
相談者は少し意外そうに遥を見た。
「無理にいいところを探して、嫌だったことを帳消しにしなくてもいいと思う。楽しかったことが嘘になるわけじゃないし、嫌なことをされた事実もなくならないから」
「……両方、本当ってこと?」
「うん」
「じゃあ、嫌いじゃなくても、距離を置いていいんですか」
「いいと思う」
「相手のことを嫌いになってからじゃなくても?」
「嫌いにならないと離れちゃいけないわけじゃないだろ」
相談者は膝の上で指を組み直した。
「俺、相手を嫌いになったら、自分が悪い奴になった気がするんです。いいところも知ってるのに、嫌なところばっかり見てるみたいで」
遥は返事をするまでに、少し時間がかかった。
嫌いになる。
遥にとって、それは簡単なことではなかった。
自分を傷つける相手にも、機嫌のいい時はある。誰かに親切にする姿を見ることもある。周りから好かれている理由だって、分からないわけではない。
だからといって、自分に向けられたものが消えるわけではなかった。
昨日、笑いながら制服の襟を引かれたことも。
今日、廊下で肩をぶつけられ、謝るどころか邪魔だと笑われたことも。
その直後、相手が別の誰かと楽しそうに話していたことも。
遥は、その人たちのいいところを知らないわけではない。
知っていても、何も変わらない。
「遥?」
「……ごめん。考えてた」
「何を?」
「嫌なことをされた相手にも、普通の顔で話しかけられることってあるよなって」
「ある。俺、さっきまで嫌だったのに、向こうから話しかけられたら普通に笑っちゃうんです。それで、あとから自分が嫌になる」
「笑えたからって、嫌じゃなかったことにはならないだろ」
相談者は口を閉じた。
「その時は楽しかったのかもしれないし、いつも通りにしたかったのかもしれない。相手を嫌いになりきれないのも、別におかしくないと思う」
「……じゃあ、俺はどうしたらいいんだろう」
遥はすぐには答えなかった。
簡単に離れればいい、と言うことはできる。
嫌なことをする相手とは関わらなければいい、と言うこともできる。
けれど、離れたあとに何を言われるのか。離れたことで何をされるのか。周りからどんな目で見られるのか。
そういうことまで考えてしまう人間に、ただ離れればいいと言うのは簡単すぎる。
遥自身、逃げ道があると言われることと、実際にそこへ行けることが同じではないのを知っていた。
「まず、嫌いになるかどうかを決めなくてもいいんじゃない」
「決めなくていい?」
「うん。これからも話したいなら話せばいいし、今日は話したくないなら無理に話さなくてもいい。相手の全部を好きか嫌いかで決めなくても、自分が何をされたくないかは決めていいと思う」
「……そいつを嫌いになれなくても、嫌なことは嫌だって思っていいんだ」
「そうだと思う」
相談者はゆっくり頷いた。
「俺、嫌いになれない自分が駄目なんだと思ってました」
「そうとは限らないだろ」
「うん……ありがとう。少し、楽になりました」
ruruha
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なもなき茶@ソナチ布教者
516
クラゲ
27
#一次創作
ruruha
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相談者が帰ったあと、遥はしばらく扉を見ていた。
嫌いになれないから、苦しい。
嫌いになったところで、何も変わらない。
相手のいいところを知っていることと、相手から傷つけられることは、両立する。
それくらい、遥にも分かっていた。
分かっていたのに。
廊下から笑い声が聞こえた。
遥は反射的に肩を縮めた。
足音が近づく。
扉の向こうで誰かが、わざとらしく遥の名前を呼んだ。
「おーい、まだそこにいんの?」
遥は返事をしなかった。
「無視かよ。感じ悪」
笑い声が遠ざかっていく。
遥は机の下で、握り込んでいた手を開いた。
嫌いだと思う。
もう関わりたくないと思う。
それでも明日、顔を合わせれば、きっと何も言えない。
嫌いになっていいと、誰かに言ってほしいわけでもなかった。
ただ、自分が何をされても、相手の事情や機嫌を先に考えてしまう。
その癖が、どうしても抜けなかった。
遥は相談者の座っていた椅子を元の位置に戻した。
誰かに向けてなら、言葉にできる。
自分のことになると、どこまでが許していいことで、どこからが許さなくていいことなのか、分からなくなる。
明日もきっと、遥は同じ廊下を歩く。
何事もなかったような顔をして。
コメント
1件
読み終わりました。このエピソード、すごく胸に来ました。「嫌いになれないから苦しい」って感覚、すごく分かるんですよ。遥が相談者に「嫌いになるかどうかを決めなくていい」と言ったところ、本当に救われる言葉だなと思いました。あと、相談者に言えることは自分には言えない、その描写のリアルさが刺さりましたね。構造としても、相談者と遥が鏡像みたいになっていて、読んでるこっちも自分の人間関係を振り返ってしまいました。いいところを知ってるからこそ傷つく、そのもどかしさを丁寧に書いてくれてありがとうございます。