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竹村誠一は厳しい目をした。
「雑巾を投げつけられたんですか?」
「はい」
「今までこんな事はありましたか?」
「い、いいえ」
湊と竹村誠一は顔を見合わせ、そして居直った。
「綾野さん」
「はい」
「もしかしたらご主人の行動がエスカレートするかもしれません」
「エスカレート」
「攻撃的になり暴言や暴力を受けた時はそれも録音する事をお勧めします」
「録音、ですか?」
「はい。ドメスティックバイオレンス、モラルハラスメントの予兆が考えられます」
「…まさか」
菜月は顔色を変え、湊 を振り向いた。
「菜月、離婚を考えているならそうした方が良いよ」
「分かった」
「綾野さん、その不倫相手やご主人様から酷い暴力を受ける様な事があればいつでもご連絡下さい。近隣の交番から警察官を向かわせます」
「ありがとうございます」
竹村誠一は名刺の裏に「私、個人の番号です」と携帯電話番号を書き込み菜月に手渡した。
夕暮れの薄暗いリビングに、食器を洗う水音だけが響いていた。菜月はシンクに立つ自分の姿を、まるで他人事のように感じていた。スポンジを握る手は機械的に動き、皿を擦るたびに心のどこかで小さな波が立った。賢治の変化が、彼女の胸を締め付けていた。
(三ヶ月前から、だよね…少しずつ、言葉が尖ってきた。)
それは、賢治が如月倫子と付き合い始めた時期とぴったり重なる。倫子との関係が賢治を変えたのだろうか? 不倫の噂が本当なら、賢治の苛立ちや猜疑心はそこから来ているのかもしれない。菜月はそんな考えを振り払おうと、首を振った。
だが、心の奥底でざわめく不安は消えなかった。倫子と賢治の関係が、彼女の知らないところでこの家を侵食している気がした。洗い物を終え、エプロンのポケットに手を入れると、ボイスレコーダーの冷たい感触が指先に触れた。菜月はそれを握りしめ、胸の鼓動が速まるのを感じた。
湊から手渡されたボイスレコーダー。彼女は密かに録音を始めた。いつか必要になるかもしれないという、漠然とした恐怖がそうさせたのだ。
不意に、背後で足音がした。菜月はハッとして振り返る。そこには、眉間に深いシワを刻んだ賢治が立っていた。スーツのネクタイは緩み、いつも整った髪は乱れていた。こんな時間に会社から戻るなんて、今まで一度もなかった。菜月の背筋に冷たいものが走る。
「ど、どうしたの?」
声が震えた。賢治の目は、普段の穏やかな彼とは別人のように鋭く、どこか狂気を孕んでいた。
「お前、約束を守れないのか。」
低い、抑えた声。だが、その言葉には怒りが滲み、菜月の心を突き刺した。
「なに…何の話?」
菜月はエプロンのポケットでボイスレコーダーのスイッチを押した。カチリと小さな音がしたが、賢治は気づいていないようだった。彼女の手は汗で湿り、震えていた。
「その洗い物は何だ。」
賢治の視線がシンクに注がれた。
「誰が来た? 湊だろ。」
菜月の心臓が跳ねた。
「…見張ってたの?」
声がかすれた。湊は菜月を心配し、今日は警察官を連れ立ってマンションを訪れていた。だが、賢治の目にはそれがまるで裏切りの証拠のように映っているようだった。
「あの男は誰だ!」
賢治の声が一気に大きくなり、リビングに響き渡った。彼は一歩踏み出し、菜月の寝室の扉に向かってソファのクッションを力任せに投げつけた。クッションは扉に当たり、チェストの上に置かれていた雑誌を床に散らした。ガサガサと紙が落ちる音が、静寂の中で異様に大きく響いた。
「キャッ!」
菜月は思わず声を上げ、体が縮こまった。心臓が喉までせり上がってくるようだった。
「気持ちいいことでもしてたのか?」
賢治の言葉は毒のように鋭く、菜月の胸を抉った。
「何!? 何バカなこと言ってるの! 賢治さん、昨日からおかしいよ!」
菜月は必死に反論したが、声は震え、言葉は空回りした。賢治の目は赤く充血し、彼女を見据えるその視線には、かつての優しさのかけらもなかった。
「うるさい!」
賢治はリビングテーブルを足で蹴り倒した。ガラス製のテーブルが床に倒れ、乾いた音が部屋に響いた。菜月は飛び上がり、壁に背をつけた。賢治がこんな行動に出るなんて、想像もしていなかった。彼女の頭は混乱し、恐怖が全身を支配し始めていた。
賢治は菜月に近づき、彼女の両肩を強く掴んだ。指が食い込むほどの力で、菜月の体が揺さぶられた。
「菜月! 今日から外に出るな!」
彼の声は命令そのものだった。鬼気迫る表情で、彼女を睨みつける。
「え…どういうこと?」
菜月の声はほとんど囁きに近かった。恐怖で喉が締め付けられ、言葉がうまく出てこなかった。
「部屋から一歩も外に出るな! 誰も入れるな!」
賢治の声はさらに大きくなり、まるで彼女を飲み込むようだった。
「ゆ、郵便物は…」
菜月は咄嗟にそう言ったが、すぐに後悔した。そんな些細なことが、今の賢治には関係ないのだ。
「俺が持ってくる!」
賢治は一歩踏み出し、菜月の顔にさらに近づいた。
「湊ともLINEするな! 毎日チェックするからな!」
菜月の心は凍りついた。賢治の言葉は、彼女の自由を奪う鎖のようだった。彼は自分の不倫を隠すために、菜月を疑い、支配しようとしている。賢治の猜疑心は、倫子との関係が露呈する恐怖から来ているのかもしれない。だが、菜月にはそんなことを考える余裕はなかった。彼女の頭の中は、ただ恐怖と混乱で埋め尽くされていた。賢治は一瞬、目を逸らし、荒々しく息を吐いた。
その隙に、菜月はエプロンのポケットに手を滑らせ、ボイスレコーダーがまだ動いていることを確認した。赤いランプが点滅し続けていた。それは、彼女が今この瞬間を記録している唯一の証だった。
この記録が、いつか彼女を救うかもしれない。だが、今はただ、賢治の次の行動を予測し、身を守ることしか考えられなかった。賢治は菜月から離れ、リビングの窓に近づいた。カーテンを乱暴に開け、外を睨みつけた。
「お前が何してるか、全部見てるからな。」
その言葉は、菜月の心に新たな恐怖を植え付けた。賢治の監視の目は、彼女の生活の隅々にまで及ぶのだろうか。菜月は壁に背を預けたまま、動けなかった。
彼女の視界はぼやけ、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。かつての賢治は、彼女を笑顔で包み込むような優しい男だった。だが、今、目の前にいるのは、猜疑心と支配欲に駆られた別人だった。
菜月は自分の心が折れそうになるのを感じながら、ボイスレコーダーの小さなランプに目を落とした。あの小さな光だけが、彼女の希望の欠片だった。賢治は再び菜月の方を振り返り、冷たく言い放った。
「いいな、菜月。俺の言う通りにしろ。」
彼はそのまま玄関に向かい、ドアを勢いよく閉めて出て行った。バタンという音が家中に響き、菜月の体を震わせた。リビングには、散らかった雑誌と倒れたテーブルだけが残されていた。菜月はゆっくりと床に座り込み、両手で顔を覆った。ボイスレコーダーを握りしめ、彼女は小さく呟いた。
「どうすれば…どうすればいいの…」