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教室の空気が、少しずつ歪んでいくのがわかった。
日下部は、黒板の前で何気なくプリントを配りながら、その違和感を肌で感じていた。
誰も何も言わない。けれど、笑い声の高さ、机を引く音、視線の向き――そのどれもが、確実に“戻ってきた”。
蓮司が、また動き出したのだ。
昼休み。
遥の机の上に置かれた教科書の一部が切り裂かれていた。
誰も見ていないふりをする。
遥自身も何も言わない。
静かに拾い上げ、破れたページを折りたたんで鞄に入れた。
それだけだった。
何も起こらなかったように授業が続く。
けれど日下部には、その沈黙があの日の延長線にしか思えなかった。
誰かが傷ついても、もう誰も止めない。
それがこの場所の“正しさ”になっていく。
放課後、日下部は昇降口で靴を履き替えながら、廊下の向こうを見た。
遥がひとりで帰ろうとしていた。
背中が小さく見える。
以前なら、あの背を追いかけていた。
呼び止めて、何か言って、たとえ無意味でも一緒に歩いた。
でも今は、足が動かなかった。
――怒ることに、もう意味を見いだせない。
あの日、怒っても、誰も救えなかった。
遥も、俺自身も。
廊下の角で、蓮司が立っていた。
何かを待っているように、壁にもたれて笑っている。
その笑みは穏やかで、けれどどこか壊れていた。
「なあ、日下部」
「……なんだよ」
「お前、最近静かだな。どうした?」
「別に」
「前はもう少し燃えてたろ。……怒るの、飽きたか?」
その言葉に、日下部は顔を上げた。
蓮司の目が、まっすぐこちらを見ている。
挑発でもなく、興味でもなく――ただ観察。
「……お前、何がしたいんだよ」
「俺? 何も。ただ、元に戻してるだけ」
「“元に戻す”って……」
「お前も分かってるだろ。あいつは、止まると壊れるんだよ」
蓮司の口から出た“あいつ”という言葉が、やけに冷たく響く。
それは遥の名前ではなく、物のような響きを持っていた。
「お前、最低だな」
そう言っても、蓮司は笑っただけだった。
「知ってるよ。でも、俺だけじゃない。お前もだ」
言葉が、喉に刺さる。
反論しようとしても、何も出てこなかった。
蓮司はその沈黙を楽しむように、背を向けた。
「明日も見とけよ。ちゃんと、壊れていく瞬間を」
その背中が遠ざかる。
日下部はその場に立ち尽くしたまま、拳を握った。
爪が掌に食い込む。
けれど、その痛みさえ、現実を確かめる感覚にはならなかった。
――俺も、止められなかった。
それを知っているのに、動けない。
この無力が、何よりも残酷だった。
外はもう薄暗く、校舎の影が長く伸びている。
遥の背中はその影の中に溶け、見えなくなっていた。