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夜の雨が地面に沈み込んで、世界が静かに息を整えている。
通学路の並木道には、朝露が葉先に残り、光を細かく震わせていた。
朔はぎこちない息を吐きながら、約束もしていないのに足を速めていた。胸の奥が、昨夜の記憶を何度も反芻する。濡れた視界、抱き寄せられた腕の力、震えた指先。そして触れた——唇。
「……晴弥」
名前を小さく呟いたとき、前方で誰かが立ち止まる影が見えた。朝の斜光が逆光になって、その輪郭がゆっくりとこちらを振り向く。
晴弥だった。
いつも通り無愛想な表情。けれど、目元にかすかに残る赤みが、夜の雨の名残のように見えた。
「……おはよ」
朔が先に声を出すと、晴弥はほんの一瞬だけ目をそらし、それから短く返した。
「おはよう」
その声が、昨日より少し柔らかい気がした。
気まずさや恥ずかしさよりも、確かめたい想いが勝っていた。朔は歩幅をそろえるように横に並ぶ。
しばらく無言のまま歩く。靴の先が濡れたアスファルトに触れるたび、小さな光が跳ねた。
風が制服の袖を揺らし、二人の距離をほんのわずかだけ近づける。
「昨日のこと……」
最初に口を開いたのは晴弥だった。朔の鼓動がひとつ大きく跳ねる。
「言うつもりじゃなかった」
その言葉に、朔は少しだけ不安を乗せて問い返す。
「嫌……だった?」
晴弥は立ち止まった。振り返る。
太陽が雲間から顔を出し、彼の髪と睫毛に残った水滴をきらりと光らせた。
「嫌じゃない。むしろ……」
言い淀む唇。
そこに宿る、踏み出したいのに怖がる気持ち。
朔は思い切って告げた。
「俺は……嬉しかった。すごく」
その瞬間、晴弥の瞳がまるで朝露のように、透明に揺れた。
彼は視線を落とし、低く吐き出す。
「俺……さ。うまく言えないけど。
お前のことが、ずっと……気になってた。
雨の日に限らず……いつも」
朔は目を見開いた。
晴弥が、こんな言葉を。自分に。
握った拳が、沈黙を破るように震えた。
朔はそれをそっと包み込む。
「言ってくれて、ありがとう」
その指先が触れたとたん、晴弥は視線を弾かれたように揺らす。
「まだ慣れねぇ。こういうの」
照れ隠しの声音。
だが、手はちゃんと朔の手を握り返していた。
「俺も慣れてないし。……一緒に慣れよ」
朔が笑うと、晴弥も、ほんのわずかに口元を緩めた。
それは、クラスの誰も知らない柔らかい笑顔だった。
手を繋いだまま、歩き出す。
指と指が絡むたび、互いの体温が確かになる。
やがて校門が見えてくる。
視線が集まることを朔は感じ取った。噂はまだ残っている。囁き声もある。
でも——
晴弥は繋いだ手を離そうとしなかった。
むしろ少し強く握った。
そして、皆の前で朔にだけ向けた、小さな声。
「もう離さねえから」
その言葉が、朔の胸の奥まで深く届く。
教室に入ると、最初は空気が張った。
けれど、親友がさりげなく笑って声をかけた。
「おはよ、天野。……神崎も」
その自然な一言が、波紋の中心になった。
他のクラスメイトも、ゆっくりと視線を柔らかくしていく。
少しずつ、この手をつないだままの二人を、“当たり前”にしていけばいい。
朔は晴弥の横顔を見た。
晴弥も気配に気づき、そっけなく睨むふりをする。
「何見てんだよ」
「見たいから見てるだけ」
晴弥は一度だけ天井を見上げ、仕方なさそうに小さく笑う。
その笑顔の端で、朝日がきらりと光り、まるで指輪のような小さな光が生まれた。
二人の袖が触れ、影が寄り添う。
雨の季節は終わっていない。
だけど、どれだけ降っても構わない。
晴れ間は、もうここにある。