再び、音が戻ってきた。
笑い声、椅子の軋み、机を叩く音。
けれどそのすべてが、どこか歪んでいた。
数日前までの沈黙が嘘のようだった。
蓮司が一言、「戻そう」と言っただけで、空気は一変した。
それは命令でも脅しでもなく、ただ“合図”だった。
そして教室の誰もが、その合図を待っていたかのように動いた。
遥は、黒板の前に立たされていた。
机は端に寄せられ、教室の中心にぽっかりと空いた空間。
そこに“見世物”のように立つ彼の姿が、窓から差す光に晒されていた。
誰かが笑い、誰かが囁く。
教室の空気がじわりと温度を失っていく。
遥は顔を上げなかった。
ただ、その沈黙だけが唯一の抵抗のように見えた。
「おい、なんか言えよ」
背後から声が飛ぶ。
笑い混じりのその声に、何人もの小さな笑いが続いた。
“笑い”が許可された瞬間、空気が一気に膨張する。
蓮司は、その中心に立ちながら、何もしていないように見えた。
ただ腕を組み、無表情で、全体を見ている。
それが指揮者のようだった。
誰も蓮司の目を見ようとしない。
けれど、彼の表情ひとつで、すべての方向が決まることを全員が知っていた。
日下部は、自分の席からその光景を見ていた。
拳を握りしめる。
けれど、立ち上がれなかった。
――あの日の言葉が、頭をよぎる。
「俺のせいで……?」
「違う」
「それでも、俺は救われてたよ」
あのときの“救い”が、今はただの呪いのように胸を締めつける。
助けることも、逃げることも、もう許されていない。
誰かが目配せする。
笑いが増える。
教室全体が一つの意思を持ったように、遥を取り囲む。
プリントが床にばら撒かれ、椅子が倒れる。
遥は拾おうともしない。
まるで、自分が人間ではなくなったことを、すでに理解しているように。
「……おい、もういいだろ」
気づけば、日下部が声を出していた。
その声に、数人が動きを止める。
だが次の瞬間、蓮司がゆっくりと首を傾げた。
笑っていない。けれど、その沈黙がすべてを支配していた。
「“もういい”って、誰が決める?」
穏やかな声。
だが、誰もその声に逆らえなかった。
その瞬間、教室の空気が再び動き出す。
今度は笑いではなく、囁き。
日下部の名前が、そこに混じった。
「やっぱ、仲いいよな」
「まだ裏で繋がってんじゃね?」
「ああ、そりゃ庇うわ」
囁きが雪崩のように広がる。
目に見えない刃が、日下部の背中に刺さっていく。
視線が一斉に突き刺さる。
立っているだけで、吊るされているようだった。
蓮司は一歩、日下部の方へ向いた。
声は静かだった。
「お前、止めたいなら止めろよ。……その代わり、次はお前がそこに立て」
日下部の喉が鳴る。
声が出ない。
足が動かない。
ただ、視線の先で、遥がゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、怒りも哀しみもなかった。
あるのは――諦めの向こう側にある、無のような静けさだけ。
チャイムが鳴る。
誰も動かない。
音だけが、無意味に響き続ける。
その音が止むまでの間、誰一人、呼吸すらしていなかった。
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