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第三湯 未来循環泉
未来循環泉は、入口からもう温泉らしくなかった。
湯気の匂いより先に、
案内音が来た。
足もとが光り、
壁がやわらかく動き、
天井には人工の朝が浮かんでいた。
磁馬は入口で立ち止まった。
「温泉……?」
目の前には、
水の流れる壁がある。
触れない水。
濡れない水。
ただ光と音だけで、
湯に入る前の気分を整えるものらしかった。
磁馬は肩掛け鞄を押さえた。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
入館札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
「ご来館ありがとうございます」
緑の制服を着た女性が歩いてきた。
髪は短く整い、
胸元の小さな端末が淡く光っている。
「未来循環泉へようこそ。私はミナリです」
「磁馬」
「じばさん」
「それはいらない」
「失礼しました。磁馬」
ミナリは少しだけ頭を下げた。
「当施設では、お客様の体温、歩行状態、疲労度、好みの湯温を自動計測し、最適な湯めぐりを提案します」
磁馬は少し後ろへ下がった。
「自分で選びたい」
ミナリはすぐにうなずいた。
「手動選択も可能です」
「よかった」
「ただし、初回はおすすめ順路が表示されます」
床の光が、
すでに磁馬の足もとから奥へ伸びていた。
磁馬はその線を見た。
「もう決まってる」
「変更できます」
「便利すぎるなあ」
ミナリは少し困ったように笑った。
「よく言われます」
磁馬はその顔が気に入った。
案内係も、
便利すぎる設備に少しだけ困っている。
そういう顔だった。
館内は広かった。
自動脱衣室。
湯温調整廊下。
香り選択湯。
浮遊休憩台。
循環露天区画。
20
17
名前だけでは、
どう休めばいいのかわからない。
磁馬は途中で立ち止まり、
壁の表示を見た。
文字は読める。
でも、
意味がすぐ入ってこない。
人に見られないよう、
柱の陰へ少し入る。
訳機を出そうとして、
すぐに手を止めた。
近くに少年がいた。
黄緑の上着。
手首に光る輪。
目は磁馬の鞄を見ている。
「それ、紙の鞄?」
「布」
「古いやつ?」
「古いかも」
少年は目を輝かせた。
「中に紙ある?」
「ある」
「すごい。ここ、紙の案内図ないんだよ。全部壁」
磁馬は少年を見た。
「名前は?」
「コウ」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたい」
「よく言われる」
コウは床の光を踏んだ。
「初めてなら、循環露天がいいよ。富士山っぽい山も見えるし」
「ぽい?」
「本物じゃない。でも景色はきれい」
磁馬は少し考えた。
本物ではない山。
自動で整えられた湯。
便利すぎる温泉。
描きたくなった。
「行く」
コウは先に歩き出した。
ミナリも横につく。
「では、手動案内へ切り替えます」
床の光が少し薄くなった。
磁馬はほっとした。
「これくらいがいい」
ミナリは小さく笑った。
循環露天区画は、
外のようで外ではなかった。
天井は高く、
人工の空がゆっくり変わっている。
湯船は丸く、
水面はいつも同じ高さに保たれている。
湯気は薄い。
薄すぎる。
風もある。
でも、決まった間隔で吹いているように感じる。
遠くには山が見えた。
本物に似た山。
けれど、
磁馬は少しだけ首をかしげた。
「きれいすぎる」
コウが湯船の端で言った。
「きれいならいいじゃん」
「うん。いい。でも、少し落ち着かない」
ミナリが説明する。
「温度、湿度、視界、風量を安定させています」
「安定しすぎると、絵が迷う」
ミナリは黙った。
コウは面白そうに聞く。
「絵が迷うの?」
「うん」
磁馬は湯船に入らず、
まずスケッチ帳を開いた。
湯船。
人工の空。
山に似た景色。
同じ高さの湯面。
案内端末。
コウの手首の輪。
ミナリの緑の制服。
線を引く。
しかし、
描き始めても、
どこかつかみにくい。
すべてが整っている。
湯も、
風も、
景色も、
歩く順番も。
磁馬はペンを止めた。
「隙がない」
コウが首をかしげる。
「隙?」
「間違ってるところ」
「ないほうがいいじゃん」
「そうなんだけど」
磁馬は湯船を見た。
江戸宿の湯は熱すぎた。
令和の露天は湯気で富士山が隠れた。
ここは、
熱すぎず、
見えすぎず、
濡れすぎず、
迷いすぎない。
完璧に近い。
でも、
磁馬の手は少し止まる。
ミナリが静かに言った。
「古い温泉のほうが、お好きですか」
「好き。でも、ここも嫌いじゃない」
「落ち着かないだけ?」
「うん」
その時、
磁馬の入館札が鞄の奥で光った。
自動案内と連動しているらしく、
次の湯へ進む合図だった。
磁馬は慌てて鞄を開けた。
「まだ描いてる」
入館札を止めようとして、
指が滑った。
札が落ちる。
かたん。
床に当たり、
そのまま自動回収溝へ向かって滑った。
磁馬の顔が止まる。
コウが叫んだ。
「札!」
ミナリがすぐに動いた。
「回収溝を停止します」
床の光が赤く変わりかけ、
すぐ緑に戻る。
入館札は溝の手前で止まっていた。
磁馬はしゃがむ。
「落とした」
「回収前です。取れます」
ミナリが細い道具を出す。
コウも横でしゃがむ。
「見つかるまで帰らないやつ?」
磁馬はうなずいた。
「うん」
「じゃあ、絶対取る」
ミナリは慎重に道具を伸ばした。
だが、
床が自動で乾燥を始めた。
風がふっと流れる。
入館札が少し動く。
「待って」
コウが手首の輪を操作した。
乾燥風が止まる。
ミナリが札を寄せる。
磁馬は両手を広げた。
入館札が道具の先から離れ、
磁馬の手の中へ落ちた。
「見つかった」
磁馬は深く息を吐いた。
ミナリも胸元の端末を押さえた。
「申し訳ありません。自動設備が先に反応しました」
「ううん。僕が落とした」
コウが言った。
「便利すぎると、落としたものもすぐ片づけられちゃうんだね」
磁馬は入館札を見た。
「そうだね」
落としたものが、
すぐ消える。
便利ではある。
でも、
探す時間まで消えてしまう。
磁馬は入館札を布に包み、
鞄の奥へしまった。
一つ。
二つ。
三つ。
今度は落ちない。
そのあと、
磁馬は湯に入った。
湯温はちょうどよかった。
本当にちょうどよかった。
熱くもなく、
ぬるくもない。
足を入れても驚かない。
肩まで入っても苦しくない。
「ちょうどいい」
磁馬はつぶやいた。
コウが笑う。
「でしょ」
「ちょうどよすぎる」
「またそれ?」
ミナリが湯船の外で記録を確認していた。
「湯温を少し変えますか」
「ううん。このままで」
磁馬は湯に浸かりながら、
人工の空を見上げた。
雲が流れている。
きれいな雲。
でも、
雨になりそうではない。
風は吹く。
でも、
冷たすぎない。
山は見える。
でも、
隠れない。
磁馬は少し笑った。
「ここは、困らないようにできてる」
コウは湯面を指でつついた。
「困らないほうがいいよ」
「うん。でも、困った時に知り合う人もいる」
コウは考えた。
「さっきの札みたいに?」
「うん」
ミナリはそれを聞いて、
少しだけ目を伏せた。
「当施設では、お困りごとを減らすことを目標にしています」
「いいこと」
磁馬は言った。
「でも、全部なくさなくてもいい」
ミナリは返事をしなかった。
湯上がり休憩所は、
さらに便利だった。
座ると、
椅子が体に合わせて形を変える。
飲み物は、
欲しいと思う前にすすめられる。
足もとには、
乾いた履物が自動で並ぶ。
磁馬は落ち着かなかった。
「先に来る」
コウが飲み物を受け取りながら言った。
「楽でいいじゃん」
「欲しいって言う時間も、少し好き」
ミナリが休憩所に来た。
「手動提供に切り替えますか」
磁馬はほっとした。
「お願いします」
飲み物の表示が消え、
小さな注文台だけが残った。
磁馬はそこで、
温かい茶を選んだ。
少し待つ。
その待つ時間に、
湯上がりの体がゆっくり戻ってきた。
茶が出てくる。
磁馬は両手で持った。
「これがいい」
コウは首をかしげた。
「待つのが?」
「うん」
「変なの」
「よく言われる」
磁馬はスケッチ帳を開いた。
未来循環泉を描く。
自動で整う湯。
動く床。
人工の空。
便利すぎる休憩椅子。
入館札を拾う三人。
手動に切り替わった小さな注文台。
描いているうちに、
絵の中の湯気が少し変わった。
現実では薄く安定した湯気。
でも紙の中では、
湯気が少し揺れた。
急に濃くなり、
薄くなり、
山を隠し、
また見せる。
ミナリがのぞき込む。
「当施設の湯気と違いますね」
「うん」
「不安定です」
「温泉らしい」
コウも見る。
「こっちのほうが、ちょっと面白い」
ミナリは絵をじっと見ていた。
「不便なのに?」
磁馬はペンを止めた。
「不便全部がいいわけじゃない」
そして、
入館札を描いた。
落ちる札。
止まる札。
拾われる札。
「でも、少し待つ時間や、少し探す時間があると、人が見える」
ミナリはゆっくりうなずいた。
休憩所の端で、
コウが急に言った。
「磁馬さん、古い温泉も描いてるの?」
「うん」
「見たい」
磁馬はスケッチ帳の前のページを開いた。
富士見の湯。
江戸宿の熱湯。
湯気で富士山が隠れる絵。
熱すぎる湯に苦戦する絵。
コウは笑った。
「熱そう」
ミナリは静かに見ていた。
「どちらも、設備としては安定していません」
「うん」
「でも、絵の中では人が近いですね」
磁馬はうなずいた。
「近かった」
ミナリは少しだけ笑った。
「未来循環泉も、近く描けますか」
「今、描いてる」
磁馬は最後に、
ミナリとコウを描いた。
便利すぎる施設の中で、
入館札を探している二人。
コウは床にしゃがみ、
手首の輪を操作している。
ミナリは細い道具を持ち、
自動設備を止めている。
その絵の中で、
床の光が少しずつやわらかくなっていた。
磁馬は小さな紙を二枚出した。
一枚はミナリへ。
緑の制服。
胸元の端末。
手動提供へ切り替える横顔。
もう一枚はコウへ。
黄緑の上着。
手首の輪。
入館札を見つけようと身を乗り出す姿。
「これ」
コウはすぐに受け取った。
「もらっていいの?」
「手伝ってくれたから」
ミナリも両手で受け取った。
「ありがとうございます」
ミナリの絵では、
胸元の端末の光がゆっくり薄くなり、
かわりに茶の湯気が揺れていた。
コウの絵では、
床の光が札の場所を照らしていた。
「これ、館内に飾ったら変かな」
コウが言った。
ミナリは少し考えた。
「いいと思います。便利すぎる場所にも、探し物の絵があっていいかもしれません」
磁馬は茶を飲み終えた。
鞄を確認する。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
入館札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
全部ある。
出口へ向かうころ、
床の光はまた案内を始めた。
けれど、
磁馬の足もとだけ、
少しゆっくり進む設定になっていた。
ミナリが言った。
「手動寄りの案内に変更しておきました」
「ありがとう」
コウが手を振る。
「次は自動じゃない温泉も教えて」
「うん」
「たぶん?」
「たぶん」
コウは笑った。
未来循環泉を出ると、
外の風が少し冷たかった。
調整されていない風。
少し強く、
少し気まぐれで、
髪を乱す風。
磁馬はそれを受けて、
少し安心した。
鞄の中で、
未来循環泉の絵が静かに時間を進めていた。
整った湯。
人工の空。
落ちた入館札。
止まる床。
手動で出てくる茶。
揺れ始める湯気。
便利すぎる場所にも、
少しだけ寄り道できる時間がある。
磁馬はそう思いながら、
ゆっくり歩き出した。
コメント
1件
うわ、未来循環泉、めっちゃ面白かった!「便利すぎる」って感覚、すごく分かる。全部が自動で最適化されてると、逆に人間味とか、ちょっとした「待つ時間」や「探す時間」が消えちゃうんだよな。でも磁馬がミナリとコウに絵を渡すシーン、あそこでちゃんと人の繋がりが生まれてて温かかった。落ちた入館札をみんなで探す、あの不便さがむしろ宝物みたいで好きだわ。次も読む。