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第四湯 山奥の静湯
雪の山道は、音を少しずつ食べていた。
鳥の声もない。
車の音もない。
風も強くない。
ただ、足もとで雪が小さく沈む音だけがした。
磁馬は肩掛け鞄を抱え、
ゆっくり歩いた。
宿まで、あと少し。
そう聞いてから、
もうしばらく歩いている。
山奥の道は、
あと少しを長くする。
息が少しだけ淡くなりそうで、
磁馬は口もとを袖で隠した。
使わない言葉の代わりに、
ただ息を静かに吐いた。
坂の先に、
古い温泉宿が見えた。
木造の建物。
屋根に積もる雪。
小さな灯り。
煙突から細い煙が上がっている。
磁馬は立ち止まった。
「いいなあ」
声は雪に吸われて、
すぐ近くで消えた。
玄関を開けると、
木の匂いと湯の匂いがした。
奥から少女が出てきた。
茶色の作務衣。
後ろで結んだ髪。
冷たい空気で赤くなった頬。
「いらっしゃいませ」
声まで静かだった。
「磁馬さんですか」
「うん」
「小雪です。足もと、濡れていますから、こちらへ」
磁馬は靴を脱ぎながら、
鞄を確かめた。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
湯札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
小雪はそれを見て、
少しだけ首をかしげた。
「大事なものが多いんですね」
「落とすと帰れない」
「帰れない?」
「見つかるまで」
小雪は驚いた顔をしたあと、
静かにうなずいた。
「では、落とさないようにしましょう」
廊下の奥から、
灰色の厚い羽織を着た男が歩いてきた。
背は少し曲がっているが、
薪を持つ腕は強そうだった。
「よく来たな。この雪で」
「来たかった」
磁馬は答えた。
「湯を見に」
男は笑った。
「湯に入るんじゃなく、見るのか」
「入る。でも描く」
「変わった客だ」
「よく言われる」
「宗助だ」
「磁馬」
「じば。馬みたいな名だな」
「よく言われる」
部屋は小さかった。
窓の外には雪が降っている。
庭の石も、
木の枝も、
湯屋へ続く道も、
やわらかく埋まりかけていた。
磁馬は荷物を置く前に、
スケッチ帳を出しかけた。
小雪が言った。
「先にお茶を」
磁馬は手を止めた。
「お茶」
「冷えていますから」
「うん」
茶は熱すぎず、
手の中でゆっくり温かかった。
磁馬は窓辺に座り、
雪を見た。
雪は降っているのに、
騒がしくない。
むしろ、
降るほど静かになる。
「音が少ない」
磁馬が言うと、
小雪がうなずいた。
「ここは、雪の日が一番静かです」
「静かな湯?」
「はい。静湯と呼ばれています」
磁馬はその言葉をゆっくり繰り返した。
「静湯」
描きたくなる名前だった。
夕方前、
宗助が露天風呂へ案内してくれた。
「滑るから、急ぐな」
「急がない」
「それは見ればわかる」
宗助はそう言って、
少し笑った。
露天風呂は、
宿の奥にあった。
木の戸を開けると、
冷たい空気と湯けむりが同時に来た。
石の湯船。
雪の積もった岩。
周囲の木々。
そして、
湯面から立ち上がる湯けむり。
雪は音もなく降り、
湯に触れる前に消える。
磁馬は息を止めた。
「いいなあ」
宗助は湯の温度を確かめた。
「今日は少しぬるめだ」
「ぬるめ」
「長く入れる」
磁馬はまず、
湯へ入らずに描いた。
濡れない場所へ腰掛ける。
布をほどく。
スケッチ帳を開く。
ペンを出す。
湯けむり。
雪。
石。
木の枝。
雪が湯に近づいて消えるところ。
線を引く。
音の少なさを描くには、
何を描けばいいのか。
磁馬は迷った。
湯けむりの間。
雪が落ちる手前。
湯面が揺れない時間。
宗助が湯を見ている横顔。
小雪もあとから来た。
手に小さな灯りを持っている。
「暗くなる前に、足もとへ置きます」
「ありがとう」
小雪は磁馬の絵を見た。
「雪、描きにくそうですね」
「うん」
「降っているのに、形がないですから」
「形になる前に消える」
宗助がうなずいた。
「湯に落ちる雪は、旅人みたいなもんだ。来て、すぐいなくなる」
磁馬はその言葉を聞いて、
宗助を描き足した。
その時、
磁馬の膝から布が滑った。
スケッチ帳を包んでいた厚い布だった。
布は雪の上へ落ち、
少しだけ風に押される。
磁馬はすぐに手を伸ばした。
届かなかった。
布は露天風呂の石の裏へ入り込んだ。
小雪が声を上げる。
「落ちました」
「落ちた」
磁馬は立ち上がった。
宗助がすぐに手を出した。
「待て。石の向こうは凍ってる」
磁馬は止まった。
「探す」
「わかってる。だが急ぐな」
小雪が灯りを低くした。
「見えますか」
石の裏は暗い。
雪が積もっていて、
布の端が見えない。
磁馬はしゃがんだ。
「見つかるまで帰らない」
小雪は真剣にうなずいた。
「探しましょう」
宗助は長い火ばさみを持ってきた。
「これを使え」
磁馬は受け取った。
石の裏へ差し込む。
雪を少しどける。
かさ。
布らしい感触がした。
しかし、
火ばさみの先が滑る。
宗助が言う。
「もう少し右だ」
小雪が灯りを動かす。
「端が見えました」
磁馬は息を止め、
火ばさみを少し閉じた。
布をつかむ。
引く。
途中で雪に引っかかる。
「ゆっくり」
小雪の声がする。
磁馬はゆっくり引いた。
布が雪の中から出てきた。
濡れてはいない。
少し雪がついているだけだった。
磁馬は両手で受け取った。
「見つかった」
宗助は頷いた。
「よかったな」
小雪は布についた雪を払った。
「乾かしておきます」
「ありがとう」
磁馬は深く頭を下げた。
布を取り戻すと、
少しだけ体の力が抜けた。
宗助は露天風呂を指した。
「今度は湯に入れ。冷える」
磁馬はうなずいた。
湯に入る。
足先から、
ゆっくり。
湯はやわらかかった。
江戸宿の熱湯とは違う。
未来循環泉の整った湯とも違う。
雪の冷たさを知っている湯だった。
肩まで入ると、
体の奥が少しずつほどける。
耳に入るのは、
雪の音だけだった。
いや、
本当は雪に音などほとんどない。
でも、
何も聞こえないことで、
雪が降っているのがわかる。
「静かだ」
磁馬は言った。
小雪は外から静かに笑った。
「だから静湯です」
宗助は湯船の端で、
雪を見ていた。
「ここでは、余計な音は山が持っていく」
磁馬は湯けむりの向こうを見た。
雪。
石。
木。
小雪。
宗助。
全部がゆっくりしている。
急ぐものがない。
便利なものも少ない。
でも、
足りない感じもしなかった。
湯から上がると、
体が軽くなっていた。
小雪が茶を用意してくれた。
「湯上がりにどうぞ」
磁馬は両手で受け取る。
「ありがとう」
茶は少し熱く、
雪の日にちょうどよかった。
広間には火鉢があった。
宗助が薪を足す。
ぱち、と小さな音。
それだけで、
広間が少し生き返る。
磁馬はスケッチ帳を開いた。
山奥の静湯。
雪。
湯けむり。
石の裏に落ちた布。
火ばさみ。
小雪の灯り。
宗助の羽織。
湯上がりの茶。
線を引く。
絵の中では、
雪だけがゆっくり降り続けた。
湯けむりは静かに揺れ、
布が落ち、
見つかり、
また戻る。
音は描けない。
だから、
音の少ない顔を描いた。
湯の中で黙る自分。
灯りを持つ小雪。
雪を読む宗助。
小雪が絵をのぞいた。
「雪が降ってます」
「うん」
「紙なのに、静かですね」
磁馬は少し笑った。
「静かな絵になった」
宗助も見た。
「この宿より静かかもしれんな」
「そんなに?」
「絵の中なら、客の足音もしない」
小雪が笑った。
夜の食事は、
山菜ときのこの汁、
焼いた魚、
温かい飯だった。
磁馬はよく食べた。
「うまい」
小雪が少し嬉しそうにした。
「山のものばかりです」
「山の味がする」
宗助が笑った。
「そのままだ」
「そのままがうまい」
食後、
磁馬は小さな紙を二枚出した。
一枚は小雪へ。
灯りを持ち、
雪の露天風呂へ立つ姿。
茶色の作務衣。
赤くなった頬。
足音の静かな立ち方。
もう一枚は宗助へ。
灰色の羽織。
薪を持つ腕。
雪を見ている横顔。
小雪の絵では、
灯りの周りに雪が少しだけ舞っていた。
宗助の絵では、
火鉢の火が小さく揺れていた。
「いただいていいんですか」
小雪が聞いた。
「布を探してくれたから」
宗助は絵を見て、
少し長く黙った。
「雪の日だけ、広間に置くか」
「うん」
夜、
部屋の窓から外を見ると、
雪はまだ降っていた。
音はない。
けれど、
窓の外の世界は、
少しずつ変わっていく。
庭石の形。
枝の太さ。
湯屋へ続く道。
少しずつ、
雪に包まれていく。
磁馬は鞄を確認した。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
湯札。
厚い布。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
全部ある。
布は少し冷たかったが、
ちゃんと戻ってきた。
磁馬は布団に入った。
湯の温かさが、
まだ体に残っている。
外では雪が降っている。
聞こえない音が、
ずっと続いている。
鞄の中の絵では、
山奥の静湯が、
静かに雪を降らせていた。
湯けむりが上がる。
雪が落ちる。
布が見つかる。
また雪が降る。
そのすべてが、
声を出さずに、
ゆっくり朝へ向かっていた。
コメント
1件
静湯、いいですね。雪が音を食べていくという冒頭の一文から、この宿の空気感がもう伝わってくる。見つけるまで帰れないという磁馬さんのルール、そして布が落ちて三人で探す場面、あの「ゆっくり」という声がけが温かい。湯に入ってからも、体の奥がほどける感じが自分にも伝わってきて、読んでいてほっとしました。小雪と宗助の描写も、少しずつ宿の一部として動き出すようでいいな。