その声は、いつもの低い落ち着きじゃない。
どこか、微かに震えていた。
俺は全身に鳥肌が立つのを感じた。
俺は胸がざわついて、持っていたマグカップをそっとサイドテーブルに置く。
「…なんです、か?」
尊さんは振り返らないまま、両手をポケットに押し込んだ。
まるで逃げ道を塞ぐように、そして意を決したように深く息を吐いた。
「過去のことだが、話してもいいか。」
「は、はい……聞かせてくれるなら、聞きたいです。」
俺はソファの上で尊さんの方に体を向け、緊張しながら耳を澄ませた。
「これは、俺がまだ今の会社に入って1年ぐらいの頃の話だが──」
尊さんがゆっくりと振り返る。
逆光から逃れた瞳は真剣で、それでいてどこか怯えているように見えた。
「…俺は昔……付き合っていたケーキに『乱暴に噛み付かれて押し倒された』と濡れ衣を被せられたことがある」
「!!」
予想だにしなかった内容に、俺の息が止まった。
まさか、狩野さんの言っていた〝噛みつかれたことある?〟という問いの真意は、これなのか。
「それって…その……え、濡れ衣って…尊さんじゃないのに犯人にさせられたって、ことですか……っ?どうして…そんな…」
衝撃で、続きを促す言葉が出せない。
尊さんが苦しそうに唇を噛んだ。
その表情が、当時の痛みを物語っているようだった。
「最初は誤解だと言った。俺は絶対そんなことしてない。だが…フォークは予備殺人鬼と呼ばれる、だから俺は簡単に孤立した。」
「周りも当然俺を非難した、誰も俺の言葉を信じなかった、当たり前だ」
「当時はまだ会社で一番若い奴で、舐められているのもあっただろうし……フォークという理由だけで、一方的に悪者にされたんだ」
尊さんは静かに、しかし深く感情を込めて続けた。
「まあ、そのときの部長…今の社長の村瀬さんだけが俺のことを信じてくれてな、必死に動いてくれた」
「結果、防犯カメラ映像に俺が犯人ではなく、そのケーキの自作自演だったって証拠が出てきて、俺の潔白が証明された」
尊さんの告白は、あまりにも衝撃的で、俺は体が震えるのを感じた。
「そのとき以来、俺はフォークという特性を強く嫌悪したし……誰かを噛むというのも、どうにもトラウマになってしまって、あまり気が進まない」
「…すまないな、こんな話して。」
尊さんは自嘲するように苦笑いを浮かべている。
だけどそれはどこか悲しげで、俺の胸がギュッと締め付けられるようだった。
「……そうだったん、ですね……その、辛いこと思い出させてしまってすみません…」
言葉が出ない。喉の奥が熱くて、胸がいっぱいだった。
目の前の恋人が、俺の知らないところで、こんな重すぎる過去を抱えていたなんて。
何も知らずに、軽々しく「噛んで欲しい」なんて言った自分が、恥ずかしくてたまらなくなる。
尊さんは窓際から戻り、ソファの隅に座り直し、膝に肘を置いて俯いた。
その丸まった背中に、長い歳月の重みが乗っている気がした。
孤独に耐え続けた、尊さんの静かな悲しみが伝わってくる。
「いや、いいんだ。恋には話しておかないといけなかったことだろうしな。ずっと隠しておくのは卑怯だと思った」
「尊、さん…」
「……正直、誰かを心の底から疑ったことがなかったわけじゃない。世の中には信じられないような理不尽が山ほど転がってるからな。それでも、疑心暗鬼になった時期も長かった」
低く吐き出される言葉に、微かな震えのようなものが混じる。
尊さんの弱さを初めて、こんなにもはっきりと感じた。
「でも、お前のことは違う。恋のことは信じているし、疑ったことは一度もない」
「だからこそ…俺は本能でお前を味わうのが怖いのかもしれないな。お前を傷つけるのが、ひいては自分のフォークという本能が怖いんだ」
俺は無言でソファから滑り降り、テーブルを回り込み、尊さんの隣に膝をついた。
近くで見ると、尊さんの指先が小刻みに震えているのが見えた。
この人が、こんな風に弱みを見せることなんて滅多にない。
だからこそ、どれだけこの告白が尊さんにとって辛いことか伝わってきた。
「……尊さん」
声をかけただけで、鼻の奥がツンとした。
涙が溢れそうになるのを必死で堪える。
俺はそっと顎に手を添えると、尊さんの瞳が俺を捉えた。
その瞳が揺れる。
「ごめんなさい……俺、なんにも知らずに軽率なこと言って、無理に掘り下げてしまって」
「謝るなよ、俺がずっと隠してただけだ。むしろ、話すきっかけをくれて感謝してる」
「でも……」
言葉を探し迷った。
なぐさめる言葉など、今の俺は持ち合わせていない。
それでも伝えたかった。
俺がどれだけあなたを信じているか、どれだけ大切に思っているか。
「俺……尊さんの知らない面って、まだたくさんあると思います…だから、また無神経に過去のこととか聞かないようにしたいんですけど」
俺は尊さんの手を両手で握る。
「でもっ、俺、尊さんの居場所になりたいっていうか…」
「尊さんが辛い時、頼れる存在になりたいんです」
なにか励ましの言葉を、尊さんが大丈夫だと思えるような、頼れる恋人らしい言葉を探すが
良い言葉が出てこない。
ただ、溢れる思いをそのまま言葉にするしかなかった。
「たっ…頼りないかもしれないですけど…!尊さんの味方だってことだけは知っていて欲しいんです…!どんな時でも、俺は尊さんの隣にいますから…っ」
なのに、どうしてか、自然に涙が零れた。
尊さんがあまりにも孤独に、一人で戦ってきたのだと思ったら、耐えられなかった。
涙は自分のものではないように感じるほど、ただただ尊さんの痛みに寄り添いたい一心だった。
「……おい、なんでお前が泣くんだよ」
ふっと微笑む尊さんの声は掠れていて、それでもいつものように優しかった。
次の瞬間、尊さんの腕が伸びてきて俺を強く包む。
痛くはないけど、確かな温度と、尊さんの存在感。
シャツにしみ込んだ、慣れ親しんだ柔軟剤の香りに、余計に胸が詰まる。
「だって……尊さんは、濡れ衣被せられただけなのに、酷い扱い受けて……ずっとその痛みを、トラウマを抱えてたんだなって思うと…どうしても胸が傷んでしまって…っ」
胸の中で嗚咽を漏らしながらそう呟くと、尊さんの指が俺の背中を、まるで迷子をあやすように優しく撫でる。
「……やっぱ、恋は恋だな」
「えっ?」
「こっちの話だ。…それに、当時は信じてくれた部長…すなわち今の社長がいたから、まだ救いはあったってもんだ」
「ってことは…社長とは、その頃からの仲なんですね」
「ああ、よくサシで飲んだりもしてたぐらいにはな。あの人がいなかったら、俺は今ここにいなかったかもしれない」
尊さんの呼吸が揺れた。
それはきっと、笑ったのか泣いたのかの境目にある、曖昧な息づかいだった。
「恋、励まそうとしてくれてありがとな…でも心配するな、うんと昔のことだ。もう乗り越えたつもりでいる」
尊さんはそう言って、俺の頭を撫でる。
その手のひらの大きさが、俺の全てを包み込んでくれるように感じた。
窓の外は宵闇に近づいていて、薄暗い室内で
尊さんの体温だけが確かな灯りのように思えた。
「恋、正直いうと…いや、やっぱなんでもない」
抱きしめられたまま、尊さんが何かを言いかけて止めた。
「え、な、なんですか?」
俺は首を傾げて聞き返す。
すると、数秒空けて尊さんが再び口を開いた。
「…恋が、隣にいるだけで安心できるんだ」
尊さんの言葉は、優しく、そして震えていた。
「もうとっくに、俺の居場所なんだよ、お前は」
「尊さん……っ」
俺は尊さんの背中に腕を回し、力いっぱい抱きしめ返した。
尊さんの言葉や声のトーンからは、まだなにかを溜め込んでいるような気もしたけど
1つ話してくれただけでも十分だった
いつもクールな尊さんがこんな弱ったところを見せるなんて、それだけ心を開いてくれているということなのだろう。
それだけで今はいいのかもしれない。
尊さんの気持ちを尊重すべきだ、自分の気持ちをぶつけるだけじゃ意味が無い。
ゆっくりでいい
居場所が俺の隣だと言ってくれるなら
この人のそばで、この人の心を守れる恋人になりたい。
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