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そして、不安とちょっとのワクワクがまじった学校生活が始まろうとしていた。
よく寝て万全の心と身体で朝を迎えようと意気込んで眠りについた昨晩だったんだけど…
緊張して、ぜんぜん眠れなかった…。
眠いんだけど、ドキドキそわそわ不安で、寝付けられないって感じ。
何度も寝返りをうって、気づいたらカーテンの隙間から明るくなっていた。
すやすや眠っている寧音ちゃんを起こさないように、そっと窓をのぞいて目を見張った。
明け方の淡い黄色が夜の闇のコントラスト空いっぱいにひろがり、湖がその空を鏡のように綺麗に映していた。
まるでお伽話にでも出てきそうな、静かで幻想的な時間。
そんな美しい空間の中に身を置いたら、どんな気分なんだろう…。
どうせ眠れないんだもん。このまま起きて、朝のお散歩に出てみようかな。
わたしはベッドを抜け出すと、顔を洗って髪を結んで、抜き足差し足で部屋を出た。
※
エレベーターを降りて小さなラウンジを抜けると、庭に続くベランダがあった。
そこから出て行くなり、朝の冷えた空気に肌を撫でられ、ぶるりと震える。
でも、空気がとてもおいしい。
大きく深呼吸して、高原の新鮮で冷たい空気を吸い込む。
中途半端な眠気が消え去った気がした。
「朝の空気は格段に美味しいよね」
不意に声が聞こえて振り返った。
すると、見たことのある背の高い人が、手にマグカップを持って立っていた。
「…雪矢さん」
「おはよ、優羽ちゃん。こうやって話するのは、昨日初めて会った時ぶりだね」
わたしはうつむきがちにうなづいた。
気まずくて…。
だって昨日逃げたきりだったんだもの…。
須田さんと雪矢さんがあんまり怖かったからだけど、でも、悪いことしちゃったかな…って罪悪感はあった。
あやまらなきゃ。そしてはっきりお断りしなきゃ。
「昨日は、ごめんね」
けど、先にあやまってくれたのは雪矢さんだった。
「なりたくないって言うのに無理強いさせようとして…ひどいことしたね」
「いえそんな…」
「立って話すのもなんだから、座ろうか」
と促してくれたのは、ベランダ隅にあるテーブルとイスだった。
「これ、着るといい。朝の気温に油断すると身体を冷やすから」
と、雪矢さんは羽織っていた白いカーディガンを脱いで、わたしに着せてくれた。
わたしの身体をすっぽりと包む大きさと、まだ残る温もりが、やさしくわたしを包んでくれる。
雪矢さんって、やっぱりやさしいな…。
彪斗くんと並んで才能ある作曲家で、プロデュースにも長けているって寧音ちゃんが言ってた。
見惚れるくらい綺麗な顔も、彪斗くんと引けを取らない。
けど、まるきり正反対って感じがする。
彪斗くんがワガママな王様なら、雪矢さんはみんなにやさしい王子様だ。
「もしかして、寝付けなかったの?」
「はい…。なんだか緊張しちゃって…。
朝日がすごく綺麗だったから、それでちょっとお散歩に出てきたんですけど…雪矢さんも?」
「そ。俺もなんだか…君を逃したのが惜しくて、寝付けなくて…」
「え…」
「ふふ、冗談。俺はだいたいこの時間に起きて、外でカフェラテを飲むが日課なんだ。こうして明るくなる湖をぼーっと見ていると、ふと曲が浮かんだりしてね、好きなんだ」
と、こくり、とマグカップに口を付ける雪矢さん。
湯気をまとう横顔は絵に描いたように綺麗で、茶色の前髪からのぞく長いまつ毛に、思わず見惚れてしまう…。
「心配したなぁ。君がいるってわかってたら君の分も淹れてきたんだけど…。俺の淹れるコーヒー、けっこう美味いって言ってもらえるんだよね。飲む?」
「い、いえ…!」
そんな…。
間接キスになっちゃうよ…!
「そう。じゃ、近い内、ご馳走してあげるね。君とこうしてふたりきりになれる時って、これからけっこうありそうだし…。
その点は、彪斗に感謝、かな?うれしいよ。君とひとつ屋根の下で暮らせるなんて…」
どきん…
甘い胸のうずきに戸惑うわたしをよそに、雪矢さんは明るくなり始める湖を見つめたまま続ける。
「ほんとを言うとね…今朝は君のことを考えようと思って来たんだ。そしたら実際に君に会えた…すごい偶然だよね。
気になって仕方ないんだ。君のこと。君の眠った才能を埋もれさすのは、がまんできなくて」
「……」
わたしは意を決して、言わなきゃ、と思っていたことを伝えた。
「…ごめんなさい…。お気持ちはもったいなくて、すごくありがたいんですが…。やっぱりわたしは、歌手になんてなれそうにありません…」
「うん。わかってるよ。とても残念だけど、無理強いさせてもいいものは生まれないしね…」
でも、と続けると、雪矢さんはわたしを見つめて、穏やかに微笑んだ。
「『恋人にしたい』って希望なら、まだ考えてみてくれる?」
え…?