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羽海汐遠
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#虐待
ruruha
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金山ジョージ
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【あと7日】 笑顔の研究
登場人物
水城レン
二十六歳。細身で、耳の近くまで伸びた少し癖のある茶色の髪と、濃い茶色の瞳を持つ。昨日、自分の好みだけで初めて選んだ紫色のシャツを着ている。灰色のパンツと歩きやすい靴を合わせている。以前より表情が動くことが増え、本人もそれに気付き始めている。
秋庭教授
六十二歳。短く整えた灰色の髪に、細い樹脂縁の眼鏡を掛けている。背は低め。深い緑の上着と灰色のシャツ、茶色のパンツを着ている。普段は感情を表へ出さないが、最近はレンとの盤上遊戯で笑ったり、悔しそうに眉を寄せたりすることが増えている。
小宮ナツ
三十八歳。肩より少し短い茶色の髪を緩くまとめ、黄緑の細い眼鏡を掛けている。ベージュのシャツと紫色のパンツ姿。人物記録保存室の職員。昔の家族写真や日常写真を管理しており、古い写真に写る人々の表情へ以前から強い興味を持っている。
戸倉
七十代後半ほどの老人。短い灰色の髪と深いしわのある顔を持つ。茶色の長い上着と灰色のパンツを着ている。十二冊の極秘資料を文化学研究室へ持ち込んだ人物。巨大地震について何かを知っているようだが、その全容はまだ語っていない。
◆
午前七時四十一分。
水城レンは玄関の鏡の前に立っていた。
いつもより長く、自分を見ている。
紫色のシャツ。
昨日、旧衣生活資料館から帰る途中で買ったものだった。
気温に必要だったわけではない。
以前のシャツが傷んでいたわけでもない。
性能もほとんど同じ。
ただ、
着たい。
そう思って買った。
レンは袖を少し引いた。
鏡へ身体の正面を向ける。
横を向く。
また正面。
「……変じゃないよな」
誰もいない部屋で呟いた。
その直後。
自分の口元が少し上がっていることに気付いた。
レンは鏡へ顔を近づける。
笑っている。
ほんの少し。
「何で?」
紫色のシャツを着ただけだ。
何かを達成したわけでもない。
給料が増えたわけでもない。
研究成果が認められたわけでもない。
それなのに、少し嬉しい。
レンは口元を戻した。
無表情。
もう一度、少し笑ってみる。
今度は意識して。
違う。
さっきの方が自然だった。
「まあいいか」
鞄を持つ。
玄関を出た。
文化学研究室へ向かう途中、レンはいつもより人の顔を見ていた。
駅。
歩道。
列車。
店舗。
通勤する人。
学生。
作業員。
誰も怒っているわけではない。
悲しんでいるわけでもない。
ただ、表情が少ない。
静かな顔。
落ち着いた顔。
必要なときだけ話す。
必要なときだけ軽く頷く。
現在では普通だった。
感情を大きく表へ出す人間は、落ち着きが足りないと見られることがある。
仕事中ならなおさら。
喜びすぎない。
怒りすぎない。
悲しみすぎない。
興奮しすぎない。
感情を一定に保てる人ほど、成熟している。
レンもそう教えられてきた。
列車が駅へ到着する。
扉が開く。
人々が降りる。
乗る。
レンは窓に映った自分を見る。
紫色のシャツ。
その瞬間。
また少しだけ口元が動いた。
レンはすぐ窓から目を離した。
午前八時二十五分。
研究室。
扉を開ける。
演奏記録が流れている。
机の上には盤上遊戯。
昨日のままではない。
きれいに初期位置へ並んでいる。
そして。
秋庭教授。
レンは止まった。
教授の服が違う。
深い緑の上着。
灰色のシャツ。
茶色のパンツ。
いつものカーディガンではない。
教授もレンを見る。
二人とも何も言わない。
数秒。
レンが先に口を開いた。
「教授」
「何だ」
「服」
「服だ」
「昨日の影響ですか?」
「朝、たまたま目に入った」
「それ選んだんですか?」
「そうだ」
「性能で?」
教授が黙る。
レンの口元が上がる。
「好きだから?」
「研究を始めるぞ」
「逃げた」
教授が眼鏡を上げる。
「君も紫だな」
レンは自分のシャツを見る。
「着たいから着ました」
「そうか」
「どうです?」
教授がレンを見る。
上から下。
少し考える。
「似合っていると思う」
レンの顔が動いた。
「お」
「何だ」
「教授から似合うって言葉が出た」
「昨日覚えた」
「俺もです」
二人とも少し笑った。
その瞬間。
レンは今日の資料をまだ開いていないことを思い出した。
端末を起動する。
表示。
あと7日。
笑いが消えた。
七。
一週間。
数字の見え方が変わった。
十二日。
そう聞いたときは、まだ距離があった。
七日。
一週間。
現在の日付。
極秘資料に記録された巨大地震の発生日。
レンは指で数える。
今日。
明日。
二日。
三日。
四日。
五日。
六日。
七日。
一週間後。
日本を壊滅させる巨大地震。
「教授」
「分かっている」
「あと一週間ですよ」
教授は返事をしなかった。
レンは端末から目を離す。
机の上。
六冊目。
表紙に「6」。
レンは手を伸ばす。
開く。
第六対象文化。
感情表現。
その下。
主要調査対象。
笑顔。
レンは眉を寄せた。
「笑顔が文化?」
教授が隣から見る。
「感情そのものではなく、表へ出すことを対象にしているらしい」
頁をめくる。
写真。
レンの手が止まった。
人。
笑っている。
次の写真。
また笑っている。
次。
子ども。
大人。
老人。
一人。
二人。
家族。
友人。
職場。
学校。
旅行。
食事。
祭り。
遊び。
演奏会。
昨日調べた衣服を着ている人々。
大量の笑顔。
口を大きく開けている人。
目を細めている人。
歯を見せている人。
肩を寄せ合っている人。
何かを指差しながら笑う人。
顔を隠しながら笑う人。
「すごいな」
レンが呟いた。
「何が?」
「みんな顔が動いてる」
次の頁。
また写真。
笑顔。
笑顔。
笑顔。
「これ、撮影用ですよね?」
「一部はそうだろう」
「写真だから笑ってる?」
「それもある」
さらに進む。
街頭映像。
日常記録。
家庭映像。
学校記録。
昔の映像から切り出された画像。
写真のためではない。
普通に話している途中で笑っている。
食べながら。
歩きながら。
遊びながら。
「ずっと笑ってたわけじゃないですよね」
「もちろん」
「でも多い」
レンは自分の頬へ触れた。
「こんなに顔動かして疲れないのかな」
教授が笑う。
「そこが気になるのか」
「だって」
レンは写真の一枚を見る。
五人ほどの若者が何かを見ながら笑っている。
一人は身体を曲げるほど笑っている。
「これ、何があったんです?」
「写真だけでは分からない」
「めちゃくちゃ楽しそうですけど」
「そう見えるな」
レンは頁をめくる。
笑顔の発生要因。
喜び。
安心。
親しみ。
楽しさ。
照れ。
挨拶。
場への適応。
緊張の緩和。
さらに。
他者の笑顔を見たことによる笑顔。
「笑顔を見て笑う?」
レンは教授を見る。
「やってみてください」
「何を」
「笑って」
教授が無表情でレンを見る。
「研究です」
「便利な言葉になったな」
「お願いします」
教授が口元を少し上げる。
不自然だった。
レンは吹き出した。
教授の顔が戻る。
「今笑ったな」
「だって教授、下手すぎる」
「君がやれ」
レンは笑顔を作る。
口元を上げる。
教授が眉を寄せる。
「君も不自然だ」
レンの表情が崩れる。
また笑う。
教授も少し笑う。
レンが止まった。
「今」
「何だ」
「教授も笑った」
「君が変な顔をしたからだ」
「これ?」
資料を見る。
他者の笑顔を見たことによる笑顔。
レンは指でそこを叩く。
「これじゃないですか」
教授も見る。
二人の表情が少し戻る。
笑顔。
それ自体は消滅していない。
現在の人間でも笑う。
だが、頻度が違う。
大きさが違う。
表へ出すことへの考え方が違う。
レンは資料の保存先を見る。
旧人物生活記録保存室。
大量の日常写真を保管。
「行きますか」
教授が立つ。
「今日は写真を見るだけか?」
「昨日は服を見るだけでした」
「その前は遊ぶだけ」
「その前は音を聞くだけ」
教授が演奏記録を止める。
「文化学らしくなってきたな」
「役に立たない研究としては完璧ですね」
二人は笑った。
午前九時四十分。
研究棟を出る。
駅へ向かう。
レンはまた人の顔を見る。
信号を待つ人。
配送を待つ人。
端末を見る人。
会話する二人。
表情は小さい。
会話している二人も、時々口元が動く程度。
レンは教授へ聞く。
「昔の人が今の街を見たらどう思います?」
「静かだと思うんじゃないか」
「音じゃなく?」
「顔が」
レンは周囲を見る。
確かに。
静かな顔。
列車へ乗る。
向かい側。
幼い子どもが保護者と座っている。
子どもが何かを見つける。
窓の外を指差す。
「あれ」
保護者が見る。
「作業車両だね」
子どもが笑った。
一瞬。
大きな笑顔。
だが保護者は周囲を見る。
子どもの肩へ軽く触れる。
「静かにね」
子どもの表情が戻る。
レンはそれを見ていた。
教授も見ていた。
二人は何も言わなかった。
一時間後。
旧人物生活記録保存室。
受付。
研究員証。
申請。
しばらくして、一人の女性が出てきた。
肩より少し短い茶色の髪。
緩く後ろでまとめている。
黄緑の細い眼鏡。
ベージュのシャツ。
紫色のパンツ。
「小宮ナツです」
彼女は二人の申請を見る。
「笑顔の記録を調べたい、と」
レンが頷く。
「大量にあると聞きました」
「大量にあります」
小宮は少し笑った。
レンはその顔を見る。
「あ」
「どうしました?」
「今、笑いましたよね」
小宮が少し驚く。
「はい」
「結構自然に」
「笑顔を扱う仕事をしているからかもしれません」
レンは教授を見る。
「影響あるんだ」
教授も興味を示す。
三人で保存室へ向かう。
最初の部屋。
大量の写真資料。
小宮が端末を操作する。
「まず一般家庭の記録から」
壁面画面へ写真が表示される。
一枚目。
家族。
食卓。
全員笑っている。
二枚目。
庭。
子どもが走っている。
大人が笑う。
三枚目。
何かの祝い。
四枚目。
旅行。
五枚目。
動物と一緒。
六枚目。
食事。
七枚目。
誰かが転びそうになった瞬間。
周囲の人が笑っている。
「何でこれで笑うんです?」
レンが聞く。
小宮が写真を見る。
「無事だと分かった後なら、出来事そのものがおかしく感じられたのかもしれません」
「危ないのに?」
「危険が去ったからでしょう」
次。
誰かが変な表情をしている。
周囲が笑う。
次。
髪型が崩れている。
笑う。
次。
料理が変な形になっている。
笑う。
レンは首を傾げる。
「失敗でも笑ってる」
「昔の写真には多いです」
「失敗したら改善点を確認するんじゃなく?」
小宮が笑う。
「それもしたでしょう」
「笑ってから?」
「場合によっては」
レンは写真を見る。
失敗。
現在なら修正対象。
昔は、
場合によっては笑い話。
「失敗が思い出になる?」
小宮が頷く。
「そういう記録も多いですね」
別の分類。
友人。
写真が切り替わる。
肩を組む。
食べる。
遊ぶ。
旅行。
変な顔。
笑う。
また笑う。
「写真撮るときに、笑ってって言う文化もあったんですよ」
小宮が説明する。
レンが振り返る。
「命令?」
「命令というより、掛け声ですね」
「何で?」
「写真に笑顔を残したかったから」
「普通の顔じゃ駄目?」
「駄目ではありません」
「じゃあ何で笑顔?」
小宮は少し考える。
「後で見たとき、そのとき楽しかったことを思い出しやすかったのかもしれません」
レンは写真を見る。
記録。
現在の写真は、記録として撮る。
本人確認。
作業工程。
建物。
事故。
資料。
必要な情報を残す。
昔の写真は違う。
楽しかった。
嬉しかった。
ここへ行った。
この人といた。
その感情まで残そうとしている。
「表情も記録だったんだ」
レンが呟いた。
教授が頷く。
「そう考えると面白いな」
次の分類。
祭り。
レンはすぐ身を乗り出した。
「あ」
第2日に調べた文化。
人の群れ。
笑顔。
屋台。
遊び。
さらに演奏。
服。
「全部ある」
レンが言った。
「何が?」
小宮が聞く。
「これまで調べた文化」
祭り。
音楽。
遊び。
服。
そして笑顔。
一枚の写真の中に全部入っている。
演奏する人。
踊る人。
変わった服を着る人。
遊ぶ子ども。
笑う人。
「文化って別々じゃなかったんだ」
教授が写真を見る。
「互いに結びついていたんだろう」
音楽があるから踊る。
祭りだから特別な服を着る。
遊ぶから笑う。
誰かと一緒だから写真を撮る。
写真を見て思い出す。
一つが別の一つへつながる。
レンは画面から目を離せなかった。
「一個消えたら」
教授が静かに言う。
「他にも影響する」
レンは極秘資料を思い出した。
文化抹殺。
一つずつ消した。
だが実際には、一つずつではなかったのかもしれない。
どこかを削れば、つながっていた別の文化も弱くなる。
小宮が次の資料を出そうとした。
そのとき。
端末が鳴った。
短い通知音。
三人が同時に見る。
緊急報道。
レンの胸が一度だけ強く動いた。
画面を開く。
各地で原因不明の微小振動。
複数地域で観測。
建物への被害なし。
交通への影響なし。
専門機関が原因を調査中。
レンの指が止まった。
「振動?」
教授が端末を覗く。
小宮も見る。
報道映像。
棚から小物が落ちた店舗。
水面が細かく揺れた映像。
建物の監視装置が記録した振動。
大きな被害はない。
解説者も落ち着いている。
現時点で危険性を示す情報はない。
「教授」
レンが小さく呼ぶ。
教授は何も言わない。
レンは端末の日付を見る。
あと七日。
極秘資料。
巨大地震。
「偶然ですよね」
教授がレンを見る。
「分からない」
「小さい振動なんて珍しくないですよね」
「地域による」
「複数地域」
「それだけでは判断できない」
レンは画面を閉じた。
閉じても数字が頭に残る。
七日。
小宮が二人を見る。
「何か知っているんですか?」
レンと教授の視線が合う。
極秘資料。
まだ外へ出せない。
教授が答える。
「少し気になる資料を調べている」
それ以上は言わなかった。
調査を再開する。
だがレンは写真へ集中できない。
笑顔。
笑顔。
笑顔。
画面の隅に時刻。
一分進む。
二分。
また一分。
巨大地震までの時間も同じように減っている。
小宮が一枚の写真を拡大した。
「これは私が好きな記録です」
レンが見る。
公園。
四人家族。
何か特別なことをしているようには見えない。
敷物。
食べ物。
飲み物。
一人が笑う。
隣も笑う。
子ども二人も笑っている。
「何があった写真です?」
「分かりません」
「記録ないんですか」
「場所と年代だけです」
「じゃあ何で好きなんです?」
小宮が写真を見る。
「楽しそうだから」
また。
合理的な説明ではない。
楽しそう。
それだけ。
レンも写真を見る。
「確かに」
気付けば言っていた。
午後一時十五分。
休憩室。
三人で食事を取る。
ニュースが壁面画面に流れている。
午前中の振動。
新しい情報。
別の地域でも観測。
一部で地下水位に変化。
専門機関は関連性不明と発表。
レンは食事を止める。
教授は画面を見続ける。
「増えてます」
「ああ」
「資料の日付」
「ああ」
小宮は二人を交互に見る。
「本当に何を調べているんです?」
レンは答えられない。
教授も答えない。
画面では、
直ちに危険がある状態ではない。
そう繰り返している。
レンは食事へ戻る。
味があまり分からない。
午後二時。
極秘資料の後半。
感情表現の衰退。
最初に問題となったのは、感情による衝突。
怒り。
興奮。
集団的熱狂。
職場での感情的判断。
過度な喜怒哀楽による意思決定への影響。
レンは読む。
「これ自体は分かる」
教授が頷く。
「感情だけで重要な判断をするのは危険な場合もある」
次。
感情制御教育。
冷静な判断。
落ち着いた対話。
衝突回避。
ここまでは理解できる。
さらに数年。
強い感情表現は未熟。
大声で笑う行為は周囲への負担。
興奮は自己管理不足。
泣く行為は感情調整能力の不足。
喜びを強く示す行為は自制不足。
レンの眉が寄る。
「変わってきた」
問題だったのは、感情に支配されること。
いつの間にか、
感情を見せること自体が問題へ変わっている。
次。
教育現場。
感情表現の抑制。
職場。
表情の標準化。
公共施設。
静穏行動の推奨。
家庭。
子どもの大きな感情表現を早期に抑える教育。
「さっきの子」
列車の中。
作業車両を見て笑った子。
静かにね。
保護者の言葉。
あれは、この歴史の続きだった。
レンは資料をめくる。
笑顔頻度調査。
初期。
一日平均、多数。
数十年後。
減少。
さらに後。
減少。
感情を顔へ出すことへの抵抗。
増加。
写真撮影時に笑顔を作る人。
減少。
家族写真。
減少。
友人同士の記念撮影。
減少。
「写真文化まで一緒に弱くなってる」
レンが言う。
教授は昨日の言葉を繰り返す。
「つながっている」
最終調査。
強い感情表現は社会生活に必要か。
必要。
四パーセント。
不要。
八十二パーセント。
判断不能。
十四パーセント。
他人が大きく笑っている姿を見てどう感じるか。
好意的。
二パーセント。
不快。
五十四パーセント。
未熟に感じる。
三十一パーセント。
判断不能。
十三パーセント。
レンは画面から顔を上げた。
「笑うだけで?」
小宮が静かに言う。
「この頃には、笑顔を見る機会そのものが減っていたんでしょうね」
見慣れない。
だから違和感。
違和感がある。
だから避ける。
さらに見なくなる。
最後。
感情表現文化の継承停止を確認。
第六段階終了。
レンは資料を閉じた。
その瞬間。
床が動いた。
ほんの少し。
机の上の端末が震える。
カタ。
三人とも止まる。
カタ。
棚の保護板が鳴る。
二秒。
三秒。
終わった。
レンは立ったまま床を見る。
「今」
小宮が端末を確認する。
「振動です」
数秒後。
通知。
緊急情報。
周辺地域で小規模な揺れを観測。
被害情報なし。
レンは教授を見る。
教授の表情が固い。
「偶然」
レンが言う。
自分へ言うように。
「まだ偶然ですよね」
教授は答えなかった。
帰りの列車。
レンは座席で極秘資料を抱えていた。
車内は静か。
向かいの人々も静か。
ニュースを見る人が多い。
原因不明の振動。
複数地域。
地下水位変化。
一部の観測装置で通常と異なる値。
それでも、
巨大地震が来るという発表はない。
レンは窓を見る。
街。
建物。
道路。
店舗。
駅。
全部いつも通り。
一週間後。
本当に?
この街が?
レンは目を閉じる。
老人の戸倉。
十二冊の資料。
十二日後。
日付。
なぜ知っていた。
誰が記録した。
予測なのか。
何か別の情報なのか。
列車が少し揺れる。
通常の走行振動。
それだけなのに、レンは目を開けた。
隣の教授も同じだった。
二人とも何も言わない。
午後五時十六分。
研究室。
レンは机へ座る。
紫色のシャツ。
朝は嬉しかった。
今は袖を見る余裕も減っている。
今日の研究記録。
感情は消えていない。
しかし、感情を強く表へ出す文化は衰退した。
入力。
笑顔は個人の反応であると同時に、他者へ感情を伝える方法でもあった。
入力。
人は誰かの笑顔を見て笑い、誰かと遊んで笑い、祭りで笑い、音楽を聞き、好きな服を着て、写真へその瞬間を残した。
レンの指が止まる。
この数日。
自分も笑っている。
教授とのゲーム。
昔の音楽。
服。
資料館。
くだらないやり取り。
以前より確実に増えた。
レンは教授を見る。
教授はニュースを確認している。
難しい顔。
「教授」
「何だ」
レンは少しだけ口元を上げた。
教授が眉を寄せる。
「何だ、その顔は」
「笑顔の研究」
「今やるな」
レンは吹き出した。
教授も一瞬だけ笑った。
だが。
端末が鳴る。
二人の顔が戻る。
新しい速報。
夕方、新たに三地域で小規模な振動。
原因調査中。
レンは表示を見る。
そして画面の隅。
あと7日。
数字を見つめる。
「教授」
今度は声が低かった。
「戸倉さんに連絡できます?」
「連絡先は残されていない」
「じゃあ、どうするんです」
「次に来るのを待つしかない」
「次っていつです?」
教授は答えない。
レンは立ち上がる。
研究室を歩く。
机。
資料。
盤上遊戯。
再生装置。
昨日買った服の袋。
文化の記録。
全部ある。
巨大地震を止めるものは何もない。
「俺たち」
レンが言う。
「文化調べてる場合なんですか」
教授がレンを見る。
「では、何をする」
言葉が止まる。
地震の専門家ではない。
予測機関でもない。
避難を決定する立場でもない。
証拠は老人から渡された資料だけ。
しかも、その老人がどこにいるのか分からない。
レンは椅子へ戻る。
端末を見る。
あと7日。
「怖いですね」
初めて口にした。
教授はしばらく黙っていた。
「ああ」
それだけ。
感情を抑えることが良いとされる社会。
不安を必要以上に表へ出さない。
恐怖を周囲へ広げない。
冷静に。
一定に。
落ち着いて。
レンもそうしてきた。
だが今は、
怖い。
その感情がはっきりある。
「怖いって言っていいんですよね」
教授が眼鏡を外す。
机へ置く。
「感情があるならな」
レンは少し息を吐いた。
「教授も?」
「怖い」
二人とも黙る。
何も解決しない。
それでも、さっきより少しだけ楽になった。
レンは今日の研究記録へ戻る。
最後の一文を入力する。
感情を表すことは、問題を解決する方法ではない。
しかし、人が何を感じているのかを他者へ伝える方法だった。
保存。
午後六時。
帰る準備をする。
今日は盤上遊戯をしなかった。
演奏記録も一度しか流さなかった。
ニュースが気になっていた。
レンが鞄を持つ。
教授も上着を着る。
そのとき。
研究室の扉が鳴った。
二人が同時に止まる。
こんな時間に来客は珍しい。
教授が扉へ近づく。
開ける。
廊下。
一人の老人。
短い灰色の髪。
深いしわ。
茶色の長い上着。
灰色のパンツ。
レンは椅子から立ち上がった。
「戸倉さん」
老人は研究室へ入る。
教授が扉を閉める。
レンはすぐ近づいた。
「聞きたいことがあります」
戸倉は答えない。
「今日、各地で振動がありました」
老人の目がレンへ向く。
「資料に書いてあった地震と関係あるんですか」
沈黙。
レンは一歩近づく。
「あと七日です」
戸倉は机を見る。
六冊の資料。
祭り。
音楽。
遊び。
服飾。
感情。
そこまで進んだことを確認する。
「読み続けているんだな」
「毎日一冊」
「そうか」
「質問に答えてください」
戸倉は窓の外を見る。
夕方の街。
いつも通り動いている。
「今日の振動は」
ゆっくり口を開く。
「資料に記録されているものと一致している」
レンの身体が固まった。
教授も動かない。
「一致?」
「発生地域も」
戸倉が続ける。
「時刻も」
レンは端末を見る。
ニュース。
今日の振動。
偶然。
そう思おうとしていた。
「じゃあ」
声がうまく出ない。
「本当に来るんですか」
戸倉はレンを見る。
笑っていない。
怒ってもいない。
悲しんでもいない。
静かな顔。
現在の社会では理想とされる表情。
それが今は恐ろしかった。
「七日後だ」
研究室から音が消えた。
換気設備だけが動いている。
レンは何も言えない。
教授も。
戸倉が六冊目の資料へ手を置く。
「文化が消えていった歴史を知れば、最後に何が起きたのかも分かる」
レンが老人を見る。
「最後?」
「日本が失うのは、文化だけではない」
窓の外。
街には灯りが増えていく。
人々は帰宅する。
列車が走る。
店舗が営業している。
今日も社会は正常。
誰も七日後を知らない。
戸倉は手を離した。
「明日の資料を読め」
七冊目。
まだ開かれていない資料。
レンはそれを見る。
「その前に全部話してください」
「今話しても、君は信じない」
「今日の振動が一致したって言ったでしょう」
「だからこそだ」
戸倉は扉へ向かう。
レンが追う。
「待ってください」
老人は振り返る。
「明日だ」
それだけ言う。
扉が閉じる。
レンは立ち尽くした。
教授が七冊目を見る。
レンも見る。
開けたい。
今すぐ。
だが老人は、一日一冊と言った。
なぜなのか。
その理由も分からない。
端末がまた鳴る。
新しい速報。
各地の小規模な異変について、観測体制を強化。
現時点では日常生活を変更する必要なし。
レンは通知を消した。
窓を見る。
そして、
今日調べた大量の笑顔を思い出した。
祭りで笑う人。
遊びながら笑う人。
家族で笑う人。
失敗して笑う人。
写真を撮るために笑う人。
特別な理由もなく笑っていた人。
文化は消えた。
笑顔も減った。
そして今度は、
その文化が存在していた土地そのものが失われようとしている。
レンは机へ戻る。
六冊目を閉じる。
その横に七冊目。
明日の資料。
端末の隅。
あと7日。
朝に見たときとは、
同じ数字に見えなかった。
七日は長くない。
一週間しかない。
レンは紫色の袖を握った。
朝。
この服を着るだけで少し嬉しかった。
その感情も、
今は別のものに押されている。
それでも。
レンは教授を見る。
「教授」
「何だ」
「今日、俺の服、似合ってるって言いましたよね」
教授が怪訝そうに見る。
「言った」
「もう一回言ってください」
「なぜ」
「なんとなく」
教授は数秒黙る。
それから、
ほんの少し笑った。
「似合っている」
レンも笑った。
怖い。
それでも笑える。
二つの感情は、同時に存在できた。
レンは今日初めて、
そのことを知った。
窓の外では、
何も知らない街が静かに夜へ向かっていた。
あと七日。
その数字だけが、
誰にも見えないところで、
確実に減り続けていた。
コメント
1件
はる。です!第7話「笑顔の研究」読んだよ。 紫色のシャツを「着たいから」選んだレンと、それに合わせて服を変えた教授、そのやり取りがもう最高だった。「似合っている」って言葉に照れるレン、可愛すぎるだろ…。でも、あと7日に迫る地震、各地で増える振動、そして「日本が失うのは文化だけではない」って戸倉さんの言葉が重くのしかかる。笑顔の写真を見るほどに、失われるものが大きすぎて泣けるわ。それでも「怖い」と言えた2人の絆が、この世界の希望に見えた。続きめっちゃ気になる🔥