テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第六湯 昭和旅館街
旅館街の夕方は、少し浮かれていた。
坂道の両側に、
温泉宿の看板が並んでいる。
湯けむり。
土産物屋。
射的場。
饅頭の匂い。
遠くから聞こえる卓球の音。
磁馬は坂の途中で立ち止まり、
肩掛け鞄を押さえた。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
湯札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
その宿は、
少し古かった。
玄関には木の下駄箱があり、
廊下には赤茶色のじゅうたんが敷かれている。
壁には温泉街の写真が並び、
奥の方から電子音が聞こえた。
ぴこ。
ぽん。
じゃら。
磁馬は耳を澄ませた。
「なんの音?」
玄関にいた少女が笑った。
茶色のエプロン。
肩の上でそろえた髪。
手には宿帳。
「ゲームコーナーです」
「ゲーム」
「はい。うちの旅館、自慢なんです」
奥から主人らしい男が出てきた。
灰色の羽織を着て、
丸い顔で笑っている。
「風呂も飯もいいが、ゲームコーナーもいいぞ」
磁馬はうなずいた。
「描きたい」
主人は少し目を丸くした。
「湯じゃなくてか」
「湯も描く」
「欲張りだな」
「たぶん」
少女がくすっと笑った。
「私は千春です」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたいなお名前ですね」
「よく言われる」
主人は胸を張った。
「俺は辰巳だ。まず部屋へ案内しよう」
部屋は二階だった。
窓から旅館街の坂道が見える。
夕方の灯りがぽつぽつ点き始め、
土産物屋ののれんが風で揺れていた。
磁馬は荷物を置く前に、
窓へ近づいた。
「いいなあ」
千春が荷物置きの台を整えながら言った。
「温泉街、夜になるともっとにぎやかですよ」
「夜も描く」
「お風呂は?」
「入る」
「夕飯は?」
「食べる」
辰巳が廊下から声をかけた。
「ゲームは?」
磁馬は少し考えた。
「描く」
「遊ばないのか」
「少し遊ぶ」
辰巳は満足そうにうなずいた。
「それでいい」
湯は広い内湯だった。
壁には山の絵が描かれ、
湯面には天井の灯りが揺れている。
磁馬は湯に浸かりながら、
壁の絵を見ていた。
本物の山ではない。
けれど、
湯船の中で見ると、
それも少し旅に見える。
湯上がりに牛乳を飲み、
磁馬は目を細めた。
「うまい」
千春が通りかかり、笑った。
「お風呂あがりは、それですよね」
「かなりうまい」
「かなりですね」
磁馬は瓶を返し、
使ったものがきちんと戻ったことを確認した。
それから鞄を抱え、
ゲームコーナーへ向かった。
そこは旅館の奥にあった。
低い天井。
並ぶゲーム台。
景品の入った機械。
古いレースゲーム。
小さな占い機。
画面の光が、床にちらちら落ちている。
磁馬は入口で立ち止まった。
「いいなあ」
湯けむりとは違う。
夜祭りとも違う。
旅館の中にだけある、
少し眠くて、
少し騒がしい場所だった。
黄緑の上着を着た少年が、
景品機の前で真剣な顔をしていた。
つかむ腕が下りる。
景品に触れる。
少し持ち上がる。
落ちる。
少年は両手を握った。
「まただ」
磁馬は横に立った。
「難しい?」
少年は振り向いた。
「かなり」
「名前は?」
「英二」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたい」
「よく言われる」
英二は景品機の中を指した。
「あの小さい車がほしい」
「車」
「取れそうで取れない」
磁馬は機械の中を見た。
小さな車の景品が、
箱の隅に斜めに置かれている。
取れそうだった。
でも、
取れないようにも見えた。
「描いていい?」
「取るところ?」
「取れないところも」
英二は少し嫌そうな顔をした。
「取れないところは描かなくていい」
「でも、今は取れてない」
「次は取れる」
磁馬はスケッチ帳を開いた。
ゲームコーナーを描く。
景品機。
英二の横顔。
画面の光。
床の古い模様。
湯上がりの客が通りすぎる足。
ペンが紙を進む。
電子音が、
線の間に入っていく。
千春が景品の補充箱を持って来た。
「英二くん、まだやってるの?」
「もう少し」
「さっきもそう言ってたよ」
英二は真剣に小銭を入れた。
磁馬は自分の小銭袋を確かめた。
ある。
落とさないよう、
鞄の奥へしまう。
一つ。
二つ。
三つ。
英二が操作する。
腕が下りる。
景品に触れる。
今度は少し大きく持ち上がった。
「いける」
磁馬も思わず身を乗り出した。
だが、景品は途中で落ちた。
ころん。
英二は黙った。
千春がそっと言う。
「惜しかったね」
「惜しいのが一番悔しい」
磁馬は絵に、
その悔しい顔も描いた。
「描いた?」
英二が気づいた。
「うん」
「やだなあ」
「取れた時の顔も描く」
「じゃあ取る」
英二はまた小銭を出した。
その時、
磁馬のペンキャップが指から滑った。
ころ。
床を転がる。
ゲーム機の下へ入った。
磁馬の顔が止まった。
千春がすぐ気づいた。
「落ちました?」
「落ちた」
英二もしゃがんだ。
「どこ?」
「この下」
ゲーム機の下は暗かった。
低いすきま。
ほこり。
古い紙片。
小さな硬貨らしきもの。
ペンキャップは見えない。
磁馬は床に膝をついた。
「探す」
英二が言う。
「見つかるまで帰らないやつ?」
「うん」
千春が近くの掃除用具入れから細い棒を持ってきた。
「これなら届くかもしれません」
磁馬は受け取った。
棒を入れる。
かさ。
出てきたのは古いチケットの切れ端だった。
英二が目を輝かせる。
「何それ」
千春が見た。
「昔のゲーム券かも」
「それは旅館のもの?」
磁馬が聞く。
千春はうなずいた。
「たぶん」
磁馬はそれを千春へ渡した。
「ここへ戻す」
千春は少し笑って受け取った。
もう一度、棒を入れる。
何か丸いものが奥にある。
「それかも」
英二が床に頬がつきそうなくらい顔を近づけた。
「右、右」
磁馬は棒を右へ動かした。
ペンキャップが少し転がる。
だが、さらに奥へ行きそうになる。
「待って」
英二は景品機の景品取り出し口から手を入れた。
「そこから届く?」
千春が心配そうに言う。
「無理しないで」
「届く、たぶん」
磁馬は棒でそっと押す。
ペンキャップが手前へ転がる。
英二の指がそれを押さえた。
「取れた!」
磁馬は両手で受け取った。
「ありがとう」
ペンキャップには少しほこりがついていた。
でも割れていない。
磁馬は布で拭き、
ペンに戻した。
一つ。
二つ。
三つ。
もう落ちない。
英二が少し得意そうに笑った。
「景品より先に取れた」
「すごい」
「じゃあ次、車も取る」
英二はまた景品機の前に立った。
千春は磁馬の横で見守る。
辰巳もいつのまにか来ていた。
「何の騒ぎだ」
「ペンキャップが取れました」
千春が言う。
辰巳は笑った。
「景品機で景品じゃないものを取ったのか」
英二は真剣だった。
小銭を入れる。
腕が動く。
下りる。
小さな車をつかむ。
持ち上がる。
少し揺れる。
落ちない。
取り出し口へ向かう。
ころん。
落ちた。
英二は一瞬、何も言わなかった。
それから大きく息を吸った。
「取れた!」
千春が拍手した。
辰巳も笑った。
磁馬はその瞬間を描いた。
景品を取った英二。
拍手する千春。
腕を組んで笑う辰巳。
床で光るゲーム台。
見つかったペンキャップ。
絵の中で、
景品機の腕だけが何度も動いた。
下りる。
つかむ。
落とす。
また下りる。
今度は取る。
英二が絵をのぞいた。
「取れないところもある」
「ある」
「でも取れたところもある」
「うん」
英二は少し考えた。
「じゃあいい」
夕飯は大広間だった。
鍋。
焼き魚。
茶碗蒸し。
漬物。
温かいご飯。
磁馬はよく食べた。
辰巳が満足そうに言う。
「うちの旅館は、風呂、飯、ゲームだ」
「全部いい」
「そうだろう」
千春はお茶を配りながら笑っていた。
食後、
磁馬はまたゲームコーナーへ行った。
今度は描くためだけだった。
夜のゲームコーナーは、
夕方より少し寂しい。
客の数は減り、
音だけが残っている。
画面の光。
古い椅子。
景品機の中で残ったぬいぐるみ。
英二が取った小さな車のあった場所。
磁馬は座って描いた。
旅館の時間は、
湯だけではない。
湯上がりに寄る場所。
夕飯までの時間。
寝る前に遊ぶ時間。
そこにも、
温泉旅館の温かさがあった。
千春が隣に座った。
「こんな場所まで絵になるんですね」
「なる」
「古いだけですよ」
「古いところに、たくさん時間がある」
千春はゲーム台を見た。
「確かに、私が小さい頃からここにあります」
「じゃあ、千春の時間もある」
千春は少し照れたように笑った。
磁馬は小さな紙を三枚出した。
千春には、
景品機の前で笑う姿。
茶色のエプロン。
補充箱を持つ手。
画面の光に照らされた横顔。
英二には、
小さな車を取った瞬間の姿。
黄緑の上着。
半ズボン。
握った拳。
取り出し口の景品。
辰巳には、
ゲームコーナーの入口で腕を組む姿。
灰色の羽織。
丸い顔。
自慢げな笑い方。
千春の絵では、
景品機の光が少し揺れていた。
英二の絵では、
小さな車が取り出し口でころりと動いた。
辰巳の絵では、
ゲームコーナーの古い看板がゆっくりまたたいていた。
「くれるの?」
英二が聞いた。
「ペンキャップを取ってくれたから」
「やった」
千春は絵を大事そうに持った。
「帳場に飾っていいですか」
「うん」
辰巳は絵を見て、にやりとした。
「これでうちのゲームコーナーも名所だな」
磁馬は鞄を確かめた。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
湯札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
全部ある。
夜遅く、
部屋の窓から旅館街を見ると、
看板の灯りがまだいくつか残っていた。
遠くの宿から笑い声がする。
どこかで卓球の音もした。
磁馬は布団の上でスケッチ帳を開いた。
昭和旅館街。
湯。
牛乳。
ゲームコーナー。
落ちたペンキャップ。
景品を取る英二。
千春の足音。
辰巳の自慢げな声。
絵の中では、
ゲームコーナーの画面だけが、
夜の中で少しずつ光り続けていた。
湯けむりとは違う光。
でもそれも、
温泉旅館の夜の光だった。
磁馬は目を閉じた。
鞄の中で、
昭和旅館街の絵が静かに時間を進めている。
湯へ入る。
牛乳を飲む。
ゲームをする。
ペンキャップを探す。
景品が取れる。
夜の旅館街が少し眠る。
古いゲームの音は、
夢の中まで、
小さくついてきた。
羽海汐遠
10,941
翠
20
コメント
1件
温泉旅館の「湯けむりじゃない温かさ」がすごく良かった……!ペンキャップ探してる磁馬に英二が手を貸す流れ、景品より先に取れてちょっと誇らしげになるの、めちゃくちゃいいな。千春が細い棒持ってきてくれるのも旅館の人情って感じ。それぞれに描いた3枚の絵、帳場に飾るって台詞でじわっと来た。そして「古いところに、たくさん時間がある」って言葉、全部を肯定してくれるような優しさだわ。今夜はゲームコーナーの夢、見たいなあ。