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第七湯 未来炭酸泉
未来炭酸泉は、湯の入口から泡の音がしていた。
しゅわ。
しゅわ。
小さな音が、
床の下から上がってくる。
磁馬は受付の前で立ち止まった。
温泉なのに、
少し飲み物みたいな音がする。
壁には湯の流れが細く映され、
天井にはゆっくり動く湯気の模様が浮かんでいた。
「いいなあ」
磁馬は鞄を押さえた。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
入泉札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
「初めての方ですか」
緑の制服を着た女性が近づいてきた。
髪は短くまとめられ、
手首には細い端末がついている。
「うん」
「リオです。未来炭酸泉は、泡の量、湯圧、浮力補助を調整できます」
「浮力」
「身体が少し軽く感じます」
磁馬は目を丸くした。
「軽くなる?」
「はい。歩き疲れた方に人気です」
磁馬は自分の足を見た。
旅をしていると、
足はよく重くなる。
峠。
駅。
市場。
温泉街。
歩くたびに、
足の中へ景色が入っていくようだった。
「それは、いい」
リオは少し笑った。
「ただ、最初は弱めから入ってください。急に軽くなると、落ち着かない方もいます」
「たぶん、落ち着かない」
「では弱めにします」
湯へ向かう通路は、
やわらかく光っていた。
壁の中を泡の粒が流れている。
本物ではないのに、
見ているだけで肌がくすぐったくなる。
通路の途中で、
少年が跳ねるように歩いていた。
黄緑の上着。
軽い運動靴。
手には小さな入泉札。
少年は磁馬を見ると、
すぐに声をかけた。
「初めて?」
「うん」
「炭酸泉、すごいよ。足がふわってなる」
「ふわ」
「ほんとに。ちょっとだけ飛べそうになる」
リオがすぐに言った。
「飛びません」
少年は笑った。
「気分だけ」
磁馬は少年を見た。
「名前は?」
「カナタ」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたい」
「よく言われる」
カナタは磁馬の鞄を見た。
「それ、紙の絵道具?」
「うん」
「温泉で絵を描くの?」
「描く」
「泡って描けるの?」
磁馬は少し考えた。
「たぶん」
「たぶんなんだ」
炭酸泉の浴場は、
未来循環泉より少しにぎやかだった。
湯船はいくつかに分かれている。
弱い泡。
強い泡。
足だけの泡。
肩まで入る泡。
湯面に細かい粒が走る湯。
音は静かだが、
ずっと動いている。
しゅわ。
しゅわ。
磁馬は濡れない場所に腰掛け、
スケッチ帳を開いた。
まず、
泡の音を聞く。
泡は、
湯けむりよりさらに小さい。
すぐ生まれ、
すぐ消える。
見えたと思った粒は、
もう湯面にない。
磁馬はペンを持った。
湯船の縁。
湯面。
泡の集まる場所。
泡が消えたあとの小さな揺れ。
線を置く。
カナタはすでに足湯のような場所へ入っていた。
「ほら、軽い」
足を上げたり下げたりしている。
リオが注意する。
「勢いをつけすぎないでください」
「はーい」
磁馬はその様子も描いた。
軽くなった足。
楽しそうな顔。
泡で揺れる湯面。
リオが横に立つ。
「先に足から入りますか」
「うん」
磁馬はスケッチ帳を閉じ、
入泉札を確認しようとした。
布包みを開く。
入泉札はある。
そう思った瞬間、
小さな泡の案内台から風が出た。
ほんの弱い風だった。
けれど布の端がめくれ、
入泉札が床へ落ちた。
かたん。
磁馬の顔が止まる。
札は床を滑り、
泡量調整口の近くで止まった。
「落ちた!」
カナタが湯の中から声を上げる。
リオがすぐに端末を操作した。
「回収口を止めます」
床の光が一度だけ点滅する。
磁馬はしゃがんだ。
「探す」
「見えています」
リオが言う。
「でも、すべる床なので、ゆっくり」
カナタも足湯から出ようとした。
リオが止める。
「足を拭いてからです」
カナタは急いで足を拭き、
磁馬の横へ来た。
「見つかるまで帰らないやつ?」
「うん」
「じゃあ、取ろう」
入泉札は見えている。
だが、
床に細かい水滴があり、
指で押すとさらに滑りそうだった。
リオは細い回収具を出した。
「これで寄せます」
回収具の先が札に触れる。
札が少し動く。
泡量調整口の方へ寄りかける。
カナタが叫んだ。
「そっちだめ」
リオが端末を押す。
調整口の吸い込みが止まる。
磁馬は両手を広げて待つ。
リオが札をゆっくり寄せる。
札は床をすべり、
磁馬の手の前で止まった。
磁馬はそっとつまんだ。
「見つかった」
カナタが笑った。
「早かった」
「早くても、見つかったらいい」
磁馬は入泉札を布で拭き、
鞄のもっと奥へしまった。
一つ。
二つ。
三つ。
「かなり奥」
カナタが言う。
「かなり大事」
「なくすと入れないもんね」
「それもある」
磁馬は少し笑った。
それから、
足を湯へ入れた。
しゅわ。
細かい泡が肌に集まる。
くすぐったい。
すぐに逃げたくなる。
でも逃げない。
泡は足のまわりで生まれて、
すぐ消える。
足が少し軽い。
本当に少しだけ、
地面から離れたような気がした。
「軽い」
磁馬は小さく言った。
カナタが得意そうにうなずく。
「でしょ」
リオが説明する。
「泡と湯圧で、重さの感じ方が少し変わります」
「重さの感じ方」
磁馬は足を上げた。
いつもより軽い。
旅で重くなった足が、
泡に少し持ち上げられているみたいだった。
「歩いた時間が、少し抜ける」
リオは少しだけ笑った。
「いい表現ですね」
カナタが首をかしげる。
「歩いた時間って抜けるの?」
「たぶん」
「また、たぶん」
磁馬は肩まで湯へ入った。
未来式炭酸泉は、
熱すぎない。
でも、
ただ整っているだけでもない。
泡がずっと身体に話しかけてくる。
しゅわ。
しゅわ。
小さな声で、
疲れた場所を見つけているようだった。
磁馬は目を閉じた。
身体が少し軽い。
でも、
軽すぎると少し不安になる。
今まで歩いた道まで、
消えてしまいそうで。
磁馬は湯船の縁をそっと握った。
カナタが隣で聞く。
「怖い?」
「少し」
「なんで?」
「軽いと、どこかへ行きそう」
カナタは湯面を見た。
「温泉の中なのに?」
「うん」
リオが湯の外から言った。
「浮力補助を少し下げますか」
磁馬は考えた。
「少しだけ」
リオが端末を触る。
泡の強さが変わる。
身体の軽さが、
ほんの少し落ち着く。
「あ、これがいい」
「記録します」
「記録しなくてもいいけど」
リオは笑った。
「仕事なので」
湯上がりの休憩所には、
泡水のような飲み物があった。
カナタはそれを一気に飲もうとして、
リオに止められていた。
磁馬はゆっくり飲んだ。
口の中まで小さくはじける。
「ここは、全部しゅわしゅわしてる」
カナタが言った。
「だから好き」
磁馬はスケッチ帳を開いた。
未来炭酸泉を描く。
湯船。
泡。
軽くなった足。
入泉札。
回収具。
カナタの笑い顔。
リオの端末。
泡を描くのは難しい。
丸をたくさん描けば泡になるわけではない。
泡が消えたあとの揺れも描く。
身体が少し軽くなった時の、
手の動きも描く。
磁馬は、
自分の足もとを描いた。
湯の中で、
少し浮き上がる足。
旅の疲れが、
泡と一緒にほどけていく時間。
絵の中で、
泡だけが少しずつ生まれては消えた。
カナタがのぞき込む。
「泡、動いてる」
「うん」
「身体も軽そう」
「軽かった」
「今も?」
磁馬は足を少し動かした。
「まだ少し」
リオも絵を見た。
「泡の消える瞬間までありますね」
「消えるところが大事」
「残す絵なのに、消えるところを描くんですね」
「消えるものほど、描きたい」
リオはしばらく絵を見ていた。
休憩所の窓の向こうでは、
湯気ではなく、
細かい泡の光が壁を流れていた。
磁馬は小さな紙を二枚出した。
一枚はリオへ。
緑の制服。
手首の端末。
入泉札を回収具で寄せる姿。
もう一枚はカナタへ。
黄緑の上着。
湯上がりの軽そうな足。
泡の湯を見て笑う顔。
リオの絵では、
端末の光がやわらかく点滅していた。
カナタの絵では、
足もとの泡が小さく生まれては消えていた。
「くれるの?」
カナタが聞いた。
「入泉札を見てくれたから」
「見てただけ?」
「一緒に探した」
カナタは満足そうに絵を受け取った。
リオは両手で絵を持った。
「ありがとうございます。調整室に飾りたいです」
「泡の音がする場所?」
「はい」
「いいね」
帰る前、
磁馬はもう一度、炭酸泉の入口を振り返った。
しゅわ。
しゅわ。
泡の音は、
まだ床の下から聞こえている。
鞄を確認する。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
入泉札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
全部ある。
身体は少し軽かった。
でも、
鞄はいつもの重さだった。
その重さが、
今は少し安心だった。
鞄の中で、
未来炭酸泉の絵が静かに時間を進めている。
泡が生まれる。
泡が消える。
入泉札が落ちる。
見つかる。
足が軽くなる。
また地面へ戻る。
磁馬は歩き出した。
いつもより少しだけ、
足取りが軽かった。
それでも、
落とさないように、
鞄だけはしっかり抱えていた。
コメント
1件
みぅです🥀 「しゅわしゅわ」って音がずっと聞こえてきそうな回だった……。磁馬くんが入泉札を落として、カナタくんとリオさんが一緒に探してくれる優しさ、すごくじんわりきた。泡ってすぐ消えるのに、消える姿を描きたいって言う磁馬くんの考え方、すごく好き。軽くなった足と、それでも持つ鞄の重さが大事だっていう最後のバランス、この作品らしいなって思った。温かい気持ちになったよ🌙