テラーノベル
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王都の夜は研ぎ澄まされていた。昼の往来が薄い皮膜のように剥がれ落ち、月と街灯の放つ銀色の粒子だけが、沈黙した街路を冷ややかに満たしている。ラヴィニアは、宿舎の窓枠に指をかけた。開け放たれた窓から、乾き始めた風が滑り込んでくる。かつて肌にまとわりついた湿り気はもうなく、頬を撫でる大気は、どこか遠い場所で枯れ始めた草木の匂いと、冷ややかな土の記憶を孕んでいた。彼女は腰の剣を解き、そっと壁に預けた。
断魔の剣。
抜けば、月の光さえ凍らせるような純白の刃。昼間の修練で指先に残った違和感が、ささくれのように、まだ皮膚の奥で疼いている。稽古用の人形を斬ったあの一瞬。手に伝わったのは、破壊の手応えではなく、何かが終わりを告げる声のようだった。ラヴィニアは、肺の底に残る温い空気を吐き出す。
「……馬鹿ね」
こぼれ落ちた独り言は、高く澄んだ夜気にあっさりと溶けて消えた。感情に意味を探すこと。それは、剣を持つ者がしてはいけない、けれど抗いがたい行いだ。
それでも。視線は、自然と隣の棟へと流れていく。あの窓の向こうに、アルベルトがいる。灯りは落ちている。黒い窓ガラスが、深まりゆく夜を見つめ返してくるだけだ。眠っているのか、それとも、冴え渡る月光の下で目を凝らしているのか。どちらでも構わない。彼がそこにいるという事実だけで、胸の奥に小さな灯火がともる。冷えていく空気の中で、その熱だけが確かだった。
ラヴィニアは、自身の手を見下ろした。剣を握るために固くなった指。血も汗も、恐怖さえも握り潰してきた、武骨な手。それなのにーー今度の任務は、剣の重さが違う気がした。
鋼の重さではない。失いたくないものが増えてしまった重さだ。敵が強いからではない。死が近いからでもない。
――守りたいものが、増えてしまった。
気づいた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。それは騎士にとって、迷いへの入り口にも等しい。ラヴィニアは窓辺に頬杖をつき、額を冷たい石壁に寄せた。石の冷たさが、季節の置き土産である思考の熱を冷ましていく。
遠くで鐘が鳴った。夜の深さを告げる、低く長い音。剣を手に取る朝はもうすぐそこだ。
「……あなたは、迷ってる」
初めて口にした言葉は、不思議なほどすんなりと夜に落ちた。脳裏に浮かぶアルベルトの背中。修練場で見せる、誰よりも正確な剣筋。けれどその軌道に混じる、ほんの一瞬のためらい。
彼は正しい。
あまりに正しくーーそして綺麗すぎる。
だからこそ、来るべき季節の寒さに耐え切れず、彼自身を傷つけてしまうかもしれない。
ラヴィニアは、唇を噛む。自分は彼のように清らかではない。迷いも、疑いも、必要ならば枯葉を踏むように乗り越えていける。
だから。
「……私が、盾になる」
誓いは夜の闇に溶けていく。彼の迷いを、彼が背負いきれずにこぼした荷物を、私が拾おう。
それが愛なのか、忠誠なのか、あるいはただの傲慢なのか。名前なんて付けなくていい。剣を取る者に必要なのは理由でなく、覚悟なのだから。
ラヴィニアは立ち上がり、彼女の断魔の剣へと手を伸ばした。柄に触れた瞬間、昼間の違和感が指先から全身へ駆け巡る。
理解しなくていい。
感じなくていい。
ただ、見捨てないで。
矛盾を抱えたまま、彼女は冷たい鞘を、大切なものを守るようにそっと抱きしめた。窓の外で薄い雲が月を隠し、地上に淡い影を落とす。王都は静かに季節を変え、より深い夜へと沈んでいった。
明日、彼女は行く。
白耀剣の副官として。
第三騎士隊長として。
そして――ひとりの女として、決して言葉にはしない想いを、鎧の内側に隠したまま。透明さを増した夜の空気は、静かに、優しく、彼女の決意を包み込んでいた。
⬛︎
朝が、無慈悲なほど早くに訪れた。王都を覆う空は、まだ凍てついた薄青色に沈んでいる。東の城壁の向こうに太陽は隠れ、石畳には夜の涙のような露が冷たく張り付いていた。巨大な白い街は、嵐の前の獣のように、静かに息を潜めている。
聖律騎士団本部、石造りの中庭。そこに、騎士団の中でも選りすぐりの精鋭部隊――”白耀剣”が集結していた。数は多くない。一個小隊にも満たない規模だ。
だが、その密度が違う。
全員が純白の外套に金糸の縁取りを纏い、その下には対魔術戦を想定した対魔女用の軽装甲を帯びている。剣は鞘に収められたままだが、その鯉口はいつでも切れるよう調整されていた。抜かれることを前提としつつ、しかし、抜かずに終わることを祈るような、矛盾した鋼の匂い。
厩舎の方から、馬の低い嘶きが響く。鞍を締める革の音、鐙が触れ合う金属音だけが、一定のリズムで朝の静寂を刻んでいた。誰も無駄口を叩かない。その研ぎ澄まされた沈黙こそが、今回の任務の特異性を何より雄弁に語っていた。
ラヴィニアは、整列した騎士の中に立つ。肩にかかる外套の重みが、いつもより物理的な質量を持って感じられる。夜の独白は、もう胸の奥底に沈めた。鍵をかけ、鎖で縛り、沼の底へ沈めた。
今はただの騎士だ。アルベルトの剣であり、盾である機能。それだけでいい。
前方で、気配が動いた。アルベルトが隊の正面に立ち、鋭い視線で短く周囲を見渡す。
目が合った。
ほんの一瞬、瞬きするほどの時間。
それだけで、十分だった。彼は迷いを捨てていない。だが、迷いを持ったまま進む覚悟は、痛いほどに整っている。
「聖律騎士団”白耀剣”全部隊」
彼の声が、朝の冷気を裂くように響いた。
「これより、辺境ライトリム村へ出立する」
誰も返事をしない。肯定の意志は、直立する姿勢だけで示されている。
「任務は、対象”ソラス”の制圧、および隔離」
一拍、間が空く。騎士たちの緊張が走る。
「――ただし」
誰に言い聞かせるでもなく、アルベルトは、低い声で付け加えた。
「不必要な殺傷は、厳に慎め。我々は虐殺者ではない」
その一言に、ラヴィニアは胸の奥が熱くなるのを感じた。軍事的な命令としては、あまりに甘く曖昧だ。だが、人としては、それがギリギリの譲れない線だった。
この場に、最高戦力であるジークの姿はない。”剣聖”が動けば、それは戦争か殲滅を意味する。彼の不在こそが、この出立がまだ秩序の維持という建前で動いていることの証明だった。
「総員、乗馬!」
凛と通る号令が掛かった。一斉に衣擦れの音が重なり、騎士たちが馬上の人となる。
「出立!」
硬い蹄が、石畳を打ち鳴らした。かつ、かつ、かつ、と乾いた音が重なり、一つの大きな波となって動き出す。
白耀剣は、巨大な城門を抜け、王都の朝へと踏み出した。通り沿いの市民たちは、まだ夢の中にいる。数人の早起きな行商人が、荷車の陰から、白い亡霊のような騎士たちの行軍を遠巻きに見送るだけだ。
誰も、彼らを止めない。
誰も、声をかけない。
それが、王都というシステムだ。ラヴィニアは手綱を握り締め、一度も振り返らなかった。振り返れば、石の街の日常が、まだ戻れる場所に見えてしまう気がしたからだ。
城門を抜けると、街道は地平線の彼方までまっすぐに続いている。その先にあるのは、深い森。小さな村。黒い尖塔。そして――まだ剣を向けるべきか、守るべきかも定まらない、ひとりの少女。
向かい風が白い外套を激しく揺らす。その風には、確かに、秋の乾いた匂いが混じっていた。白耀剣は進む。もう、誰にも止められない速度で。
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