放課後の相談室は、蛍光灯の白い光が静かに満ちていた。
窓の外では運動部の声が遠く響き、夕陽がカーテンの端を赤く染めている。
その机の前に、ひとりの女子生徒がうつむいて座っていた。
指先でペンを転がしながら、ぽつりと呟く。
「……最近、何もないんです」
遥は、隣の椅子に腰を下ろす。
「何もないって、どういう感じ?」
彼女は少し考えてから、言葉を探すように視線を泳がせた。
「楽しいことも、悲しいことも、何も起きない。
ただ朝起きて、学校行って、帰って、寝るだけ。
気づいたら一週間が終わってて……。
“生きてる”っていうより、“流されてる”みたいで、苦しくなるんです」
その声には、焦りよりも、空っぽの響きがあった。
感情を失ったような、けれどどこかでまだ助けを求めているような。
「……俺も、そういう時期あったよ」
遥は机の上に置かれたペンを、彼女と同じように指で転がす。
「毎日同じことの繰り返しで、何も変わらなくて。
“このまま何も起きなかったら、どうなるんだろう”って。
生きてる意味なんて考えたら、余計苦しくなるんだよな」
彼女はわずかに顔を上げた。
「……そうなんです。
別に嫌なことがあるわけじゃないのに、満たされなくて。
“幸せになりたい”って思うより、“今のままじゃ嫌だ”って気持ちのほうが強い」
「うん」
遥は小さく頷く。
「“何もない”ってさ、実は“何かを探してる”時期なんだと思う。
でも、その“何か”が見つからないと、
自分まで“ない”みたいに感じる」
「……わかる気がする」
彼女の声は、少しだけ柔らかくなっていた。
「けど、たぶん“何もない日”って、ちゃんと生きてる証拠なんだよ」
「証拠?」
「うん。何か起きた日ってさ、記憶に残る。
でも“何もなかった日”って、誰も覚えてない。
それでも、ちゃんと呼吸して、歩いて、ここまで来てる。
つまり、“何もない”って、ほんとはすごく難しいことをやってるってこと」
彼女は、静かに笑った。
「それ……無理やりポジティブに聞こえますね」
「まあな」
遥も口の端を上げた。
「でもさ、俺たちって、“何かしてないとダメ”って言われ続けてるじゃん。
結果とか、努力とか、意味とか。
でも、“何もない時間”をちゃんと通り抜けるのも、生きる力だと思う」
しばらく、沈黙が降りた。
放課後の音が少し遠のいて、二人の間にだけ静かな空気が流れる。
「……なんか、少しだけ楽になりました」
「うん。焦らなくていいよ」
遥は立ち上がり、カーテンを少し開けた。
空の端に、夜の気配が滲んでいる。
「何もない時間の中でしか、見つからないものもあるから」
彼女は立ち上がり、鞄を抱えたまま小さく頷いた。
「……じゃあ、また来てもいいですか?」
「もちろん」
扉が閉まると、部屋の中には遥ひとりが残った。
彼は机に残された温もりを感じながら、呟く。
「……“何もない”って、やっぱり苦しいよな」
でも、その声には、どこか少しだけ、救いのような響きがあった。
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