テラーノベル
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街は、壊れるはずだった。
午前四時。
夜がまだ退ききらない、最も濃い藍の刻。
――ズゥン。
石畳の奥から、
腹の底を叩くような音が這い上がる。
広場の時計塔が、わずかに軋んだ。
一歩。
また一歩。
城壁の影が歪み、建物の輪郭が、
巨大な“何か”に喰われていく。
正門を越えたそれは、山のような巨躯だった。
騎士たちは、声を失った。
剣を抜く音も、詠唱の言葉も、
世界の速度に置き去りにされる。
間に合わない。
その事実だけが、完成していた。
「……あ」
誰かの喉から、息が零れた。
それが、終わりの合図だった。
次の瞬間。
――音が、消えた。
破壊も、悲鳴も、衝撃波もない。
ただ、広場の中央。
巨獣の足元から、“影”が跳ね上がった。
刃ではない。
闇でもない。
鋭さだけを残した、漆黒の棘。
「――――」
叫びは、形になる前に潰れた。
数トンの肉体が、押し潰されるのではなく、
吸い取られるように地面へ沈み込む。
一瞬。
そこにあったはずのモンスターは、
影として、石畳に貼り付いていた。
血はない。
傷もない。
掃き清められたかのような広場に、
ただ“ありえない形の影”だけが残る。
誰も見ていない。
否――誰も、見られなかった。
戦いは存在しなかった。
あったのは、一方的な抹消だけだ。
やがて。
静寂が、元の場所に戻る。
遠くで、一番鶏が鳴いた。
「……夢か?」
腰を抜かした騎士が、震える手で石畳に触れる。
冷たい感触。
それだけが、現実だった。
まるで最初から、
何も起きなかったかのように。
――だが。
広場から外れた、路地裏の暗がり。
少年が一人、立ち止まっている。
彼は、自分の右手を見つめていた。
足元に、影がない。
……違う。
あるべき影が、広場の石畳から、
ゆっくりと彼の靴裏へ戻ってくるところだった。
「……やりすぎたかな」
吐き捨てるような独り言。
朝の冷気に溶け、誰にも届かない。
少年は歩き出す。
朝焼けに染まり始めた街の奥へ。
背後には、平穏を取り戻した街。
何も知らない人々。
そして――
彼の一歩ごとに、
影が「クスクス」と笑った気がした。
朝の街は、いつも通りだった。
屋台が通りに並び、
焼きたてのパンの匂いが、
石畳の隙間にまで染み込んでいる。
夜明け前の冷え込みを忘れたかのように、
人々は声を交わし、笑い、
今日の予定を口にしていた。
「今朝のパン、安いよ」
「昨日より焼き色がいいな」
誰も、空を見上げない。
誰も、広場の中央を気に留めない。
あの場所には、もう何もない。
瓦礫も、血も、騒ぎも。
ただ、掃き清められた石畳が、
朝露を反射しているだけだ。
昨夜の出来事を覚えている者は、いない。
――いや。
覚えている必要が、なかった。
人々にとって、この街は「壊れなかった」。
それがすべてだ。
一人の老婆が、
広場を横切りながら、ふと足を止める。
眉をひそめ、首を傾げる。
「……ここ、こんなに冷たかったかねぇ」
独り言は、誰にも拾われずに消えた。
次の瞬間には、
彼女は屋台の値段に文句を言い、
日常へ戻っていく。
遠くで、鐘が鳴った。
朝を告げる音。
人々の時間が、
きちんと前に進んでいる証拠。
この街は、今日も平和だ。
少なくとも
――そう“扱われている”。
影は、すでに石畳から離れている。
異変は、痕跡を残さない。
残るのは、理由のない安心感だけだ。
そして、それを作った存在について、
誰も、考えようとしない。
朝の光が、街路を満たす。
夜は完全に退き、藍色は消えた。
――まるで最初から、
何も起きなかったかのように。
ギルドの一角。
掲示板の前に、
数枚の布とデザイン画が広げられていた。
「……これ、かわいい〜」
明るい声が響く。
声の主――ハーフエルフの少女が、
黒地に白のフリルがあしらわれた制服案を
両手で持ち上げていた。
「白と黒でゴシック系って、可愛くないですか?」
「うん……それがいい」
即答だった。
椅子にだらしなく腰掛けた黒マントの少年
――ノクスが、欠伸混じりに頷く。
「……ってか」
ぴたり、と空気が止まった。
受付カウンターの奥。
書類を整理していた女性が、ゆっくり顔を上げる。
黒から濃紺に近い制服。
白いフリル。
冷たい銀色の瞳。
エリス・ヴァルディアだった。
「なんで、あなたが参加してるんですか?」
声音は低く、感情が乗らない。
刃のないナイフのような言葉。
「めんどくせぇ〜、働きたくない〜って、
いつも言ってる人が……」
ノクスは気にした様子もなく、背もたれに寄りかかる。
「いや、これはマスターとしての大事な仕事だからな」
「……は?」
エリスの眉が、ほんのわずかに動いた。
「受付嬢の制服だぞ。
ギルドの“顔”だ。
可愛いかどうかは重要だろ」
「……その割に、
今まで一度も興味示しませんでしたよね」
「今日は、たまたま」
「信用できません」
即断だった。
横で聞いていたハーフエルフが、
きょとんとした顔で二人を見比べる。
「え、でも……マスター、
ちゃんと考えてくれてるんですよね?」
「……リィナ、あなたは黙っててください」
「えぇ?」
エリスは、ノクスに視線を戻す。
「で?」
「で、とは?」
「どこが“いい”んですか」
問い詰めるような視線。
ノクスは一瞬考えてから、
面倒そうに口を開いた。
「……似合いそう」
一瞬。
エリスが、言葉を失った。
「……」
「……」
空気が凍る。
「……」
先に視線を逸らしたのは、エリスだった。
「……業務に戻ります」
「採用?」
「……検討します」
「やった」
ノクスは、満足そうに頷いた。
その様子を見て、リィナが小さく笑う。
(あ、この二人……)
何かを察したような、そんな顔だった。
ギルドの掲示板に、
いつの間にか一枚の張り紙が増えていた。
紙質は安い。
文字は丁寧だが、
どこか整いすぎている。
《魔力自慢、募集》
《優勝者には賞金および生涯安定した生活を保証》
「へぇ……」
冒険者の一人が、鼻で笑う。
「討伐でも遠征でもねぇのかよ」
「さすが、変わり者ギルドって感じだな」
周囲から、軽い笑い声が上がる。
誰も深く考えない。
――その中で。
エリスだけが、無言で張り紙を見つめていた。
(……認証スタンプが、ない)
ギルド正式依頼には必ず押されるはずの、
赤い刻印。
それが、どこにもない。
「……」
胸の奥が、わずかにざわつく。
(魔力……漏れてないよね)
反射的に、自分を確かめる。
問題はない。
ずっと、完璧に隠してきた。
それなのに。
「これ、ほかのところでも見かけた気がします」
間延びした声が、空気を切った。
リィナだった。
「市場の近くとか、宿屋の前とか……」
「なんだか、いっぱい貼ってありますよね」
エリスは、即座に動いた。
ぴり、と音を立てて張り紙を剥がす。
「……え?」
「正式な依頼ではありません」
「ギルドの了解も取っていない」
「でも……」
「危険です」
短い言葉だった。
冒険者たちは、剥がされた紙に興味を失い、
話題は、すぐに別の依頼へ移っていった。
――ただ一人。
ノクスだけが、
剥がされた紙をじっと見つめていた。
「……」
紙から、微かに感じる違和感。
魔力ではない。
だが、魔力に“触れた跡”のような何か。
(……また、始まるのかな)
そんな言葉が、喉まで出かかって――
ノクスは、何も言わずに視線を逸らした。
そのときだった。
ギルドの奥。
掲示板の端に留められていた一枚の依頼書が、
ふっと、揺れた。
風はない。
扉も閉まっている。
「……?」
リィナが首を傾げる。
次の瞬間。
ノクスの足元で、影が――わずかに、伸びた。
「……」
ノクスは、気づかないふりをした。
気づいていない、わけがない。
影は、床に滲むように形を変え、
そこに仮面の輪郭を描く。
ドクロのような――
笑っているような。
「……今日は、静かにしてくれよ」
小さく、囁く。
影は、従順に揺れ、元の形へ戻った。
その一部始終を、
受付カウンターの奥から、エリスが見ていた。
「……また、ですか」
独り言のような声。
ノクスは、苦笑いをした。
「たぶん……気のせい」
「そういう“気のせい”が、
この街を何度救ったと思っているんですか」
返事はしない。
ノクスは、椅子に深く腰掛け、
いつもの調子で言った。
「めんどくさいなぁ……」
だが。
その足元で、
影だけが、何かを知っているように静かに笑っていた。
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