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◇脅したいわけじゃない、ただ会いたいだけの乙女心
桃を絶望の淵に立たせたあの日のことを俊は今も悔やんでいた。
実は桃が恵子からの電話をとった日の前日、俊のところへも恵子からの電話が
入っていたのである。
『会いたい』と……。
勿論俊は即座に断った。
しかし、恵子は引かなかった。ただ会うだけでいいからと、粘るのだった。
それでも俊が桃を裏切ることになるから会えないというと、今度は
脅しにかかる恵子。
恵子が、以前ホテルでのふたりの情事を隠しビデオで撮っていたというのだ。
会ってくれなければその画像を桃に送り付けてやる、というものだった。
そしてそう言ったかと思うと恋する乙女のように
『私は水野くんが好きなの。だから会いたいの』
と言うのだった。
好きな相手を脅すのか? まともな人間ならそう問うだろう。
裸婦モデルを嬉々としてやるようになってしまった痛々しい妻のことを思うと
どうしたものかと悩む俊だった。
兎に角一度会い、今後自分たちは会ってはならない立場であることを
ソフトに滾々と話しをしてそれでも恵子が脅迫してくるのを
止めないのであればその時は桃の両親にも立ち会ってもらい、桃に
過去のことで恵子から脅されていることを正直に話し、警察に届け出るだとか
弁護士に相談するだとかというように、何か対策を打たなければならないと
俊は考えた。
痛々しいほどの恵子の主張……
恵子の執拗さには辟易するばかりだが、どうしてこんなに自分に、
自分は既婚者なのに、執着してくるのか俊は理解に苦しむしかなかった。
恵子の執拗さを鑑みてみれば、妻にさも自分も望んで恵子に
会うのだと吹聴するくらいのことをやってのける可能性もあったのに、
女性心理に疎い自分はそこまで頭が回らず万事休す。
後の祭りだった。
このことは病院に搬送され傷が回復した後、警察が事件のあらましについて
聞き取りに来た時に、恵子の調書から教えられた。
あの事件の起きた日の前々日、俺たち夫婦は濃密な夜を過ごしていた。
それを思うと、桃の落胆と怒り具合が分かろうというものだ。
俺を刺した時の桃の顔は何の感情も表しておらず、凍り付いた冷ややかな目をしていた。
不思議なもので刺された瞬間、何が起きたのか理解できなかった。
刺されたのが腹だったのも、立ったままの状態から崩れ落ちていく途上で
ナイフが目に入り、刺されたのだと気づいたくらい。
本当に不思議な体験だった。
とっさに俺は死にたくないと思った。
俺が万が一死んでしまったら、桃が刑務所送りになるからだ。
これ以上、桃を傷つけたくなかった。
桃を、大切な女性を、助けたかった。
『警察から被害届を出されますか?』 と病室で訊かれたが俺はNOと答えた。
俺と恵子の遣り取りを知らない桃からしてみれば、やり直させてほしいと
懇願してきた夫がまさかの浮気相手と会っているところに遭遇したのだから、
発狂するのは当然のこと。
俺は刺されて当然のことをしたのだ。
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◇退院
退院する日に両親からしばらくは実家で療養するようにと言われ、
入院してからずっと気になっていたことを俺は母親に訊いてみた。
「その、桃はあれからどうしてるか知ってる?」
「実はね、桃ちゃんも、入院してたのよ。
それでね、桃ちゃんも今日退院するらしいの。
今頃ご両親が迎えに行ってるんじゃないかしら」
そんなことになっていたとは……。
奇しくも桃も同日に退院するということらしい。
続けて俺の預かり知らぬところで、桃の担当医の助言もあり、両家の両親の間で
俺たち夫婦の離婚が決められていることも聞かされることとなる。
それを聞かされて『そんなぁ~』とも思ったが、『そうなるよなぁ~』とも
思った。
退院後、桃は彼女の実家へと戻り、俺もまた両親の住まう家へと帰る。
そんなわけで俺たちの住まいは当分の間、空き家になりそうだった。
◇ ◇ ◇ ◇
退院して自宅に帰る車中で母親から病院での当時の桃の様子を
姑よろしく、悪びれることなく不満げに語るのを聞かされた。
『桃ちゃんが連行された後すぐにそのまま病院へ入院することが決まって、
翌日私とお父さん、それとあちらのご両親の4人が召集されたんだけどね、
すごかったのよぉ~。
桃ちゃんの担当医に怒られちゃったのよー、桃ちゃんの気持ちを蔑ろにするなってね。
桃ちゃんがああなったのは私たちのせいだー、とまで言われたのよ。
まったく……もう』
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最後に飲んだ薬のせいか、酷く眠くて認知機能が半減している中で帰る道々、
俺は父親の運転する車の中でまどろみながら、母親が捲し立てる話を
薄ぼんやりと聞いていた。
退院後2~3日して体調も気分も少し落ち着いた頃、俺はどこかで
引っ掛かりを感じていたことを思い出した。
そうだ、母親の言ったあの言葉だ。
担当医が桃の心情について語り、桃が俺を刺したのは俺たちのせいだと
言いきったところだ。
「なぁ、母さん、桃はその……どこが悪くて病院にいたんだ? 」
「……」
母親が側にいる父親の顔を見た。
「もう今更だ、話しておいてもいいだろう。
桃さんな、精神病院に入院してたんだよ。
お前と離婚できないことが原因で精神を病んでしまい、それであんな風な
事件を起こすまでになってしまったそうだ。
心を病んでるんだそうだよ」
「その道の専門医の意見ってことか……」
俺が離婚を承諾しなかったばかりに彼女を追いこんでしまったんだな。
恵子から連絡があった時にちゃんと桃に相談するべきだったのに……。
俺は判断を大きく間違えてしまったことに、今更ながら気づかされた。
それにしても、もう他に道はないのだろうか、離婚する以外。
何もかもが後手後手にまわり上手くいかなかない俊は
深くため息をつくのだった。