『そうだネ、そうだネ。アタシもそう思うヨ』と白猫がふふっと笑う。
『ウンウン。本来の持ち主ガ、『体』を正しく扱うべきだよネェ』と黒猫も続く。
「そうよ、だからワタシが戻るべきなの」
ティアンが二匹に向かって胸を張る。不可思議な生き物の賛同を得られ、すっかり機嫌は回復したみたいだ。
『じゃあ、そうすルカ』
『あの体の、本来の持ち主が現世に戻りましょうネェ』
「決まりね!……はぁ。戻ったら早くお風呂に入りたいわ……。って言うか、まずどうやって屋敷に戻ったら良いわけ?——ちょっと、ねぇ、ちゃんと屋敷まで送ってくれるんでしょうねぇ」
腰に手を当て、ティアンが図太い態度で天秤の上の二匹を見上げる。もうすっかり彼らを召使みたいに扱っている態度だ。だがカーネの方は二匹の妙な言い回しがどうにも胸に引っ掛かる。先程のニヤリとした仄暗い笑みも気になり、とてもじゃないが楽観視は出来なかった。
『うんウン。今のうちに好き勝手言うといイヨ』
『むしロ、今しか言えないからねェ』
クスクスと二匹が笑う。従う気なんかまるで無いと丸わかりな態度なのに、言葉なのに、ティアンは何も気が付いていないのだから驚きだ。『もしかすると姉は、周囲から悪意を向けられた経験が無いからかもしれない』と、カーネはちょっと思った。
『『では、本来あるべき状態に——』』
黒猫、白猫が同時に声を合わせてそう言うと、次の瞬間、ふっと一人の姿がその場から消えた。
「……え?」
その事実を目の当たりにしてティアンが間の抜けた声をあげる。この空間に残っているのは自分で、消えたのは妹のカーネの方だったからだ。
「——ちょ!間違ってるわよ!ワタシを戻すって話だったじゃない!あっちもそれを望んでいたでしょう⁉︎『自分が残る』って言っていたじゃないのよ!訊いておいて、個々の要求は完全に無視とかあり得ないわ!」
大声をあげているが、二匹は知らぬ存ぜぬといった雰囲気だ。そのせいで益々ティアンの怒りが心火の如く燃え上がった。
「人の話を聞きなさいよ!早く戻して、ワタシが早く戻らないと、メンシス様だって絶対に悲しむわ!」
『あァ、それはないねェ』
『ないネェ、ないナイ』
間髪入れずに揃って否定され、ティアンは今にもブチギレそうだ。
『それにねェ、あの体には『持ち主が戻るべきだ』っテ、アナタも言っていたじゃなイ』
『そうダネ、そうダネ。言っていタヨ』
『『だかラ、そうしたノ』』
氷みたいな視線を二匹が向ける。だがそんな事をされたって、ティアンが臆するはずがなかった。
「アンタ達は目が腐ってるわ。いくらワタシ達が双子だからって、あんな顔の女と、ワタシを間違えるとか……巫山戯るのも大概にしなさいよ!」
『「あんな顔」ネェ……』
『「あんな顔」にしたのモ、アンタなのによく言うワ」
二匹は呆れ、大きなため息をつく。だがカーネの火傷の理由をもう全く覚えていないティアンは、「バカ言わないでよ。あれは調理場で滑って転んで、あの子が勝手に火傷したのよ。鈍臭いあの子が全て悪いのに、ワタシのせいなんかにしないで欲しいわ!」と喚くばかりだ。
はぁと息を吐き、『——そもそもねェ』と言いながら、白猫が天秤のうでから飛び降りる。
『人様の体を乗っ取っていたノハ、自分の方だッテ、いい加減自覚した方がいイヨー』
白猫に続き、黒猫もそう口にしながら巨大な天秤のうでから華麗に降りた。体格差のある二匹が側に寄り添うと随分と黒猫の方が大きい。まるで中型犬と子猫が並んだ絵面みたいだ。
「……は?何訳のわからない事を言ってるの?」
本当に何の事か全くわからず、ティアンが顔を顰める。
『まァ、ヒト族のアナタじゃ覚えていないよネ。神の怒りを買っテ、ヒトにはもう長らく加護が無いものネ』
『でモネ、覚えていないからッテ、罪が消えたりとかって都合のいい話ハ——』
『『残念ながラ、無いんだよネェ』』
二匹が躙り寄るみたいにじわりと近づくと、彼らが醸し出すどんよりとした空気に押され、ティアンがたじろいだ。驚く程空気は読めずとも、流石に目視出来る程の悪意を前にしては強気な態度のままではいられない。
そんなティアンの足元から徐々に白い空間が消えていく。底も何も一切感じ取れない真っ黒なものがじわじわと、彼女の足元からあぶくみたいに吹き出し、白い空間をどんどん侵食していく。
足が、脚が、その闇の中にずぶんっと少し沈み、ティアンが情けない声で悲鳴をあげた。沼の中に足を取られるみたいな感覚のせいで得も知れぬ恐怖がティアンに襲い掛かる。手首と足首に着いている枷から伸びる真っ黒い鎖もどんどんその闇の中に取り込まれ、彼女の体がまた、ぐんっと下に引っ張られた。
それと連動するみたいに巨大な金色の天秤も、片側にガタッと傾いた。先程まで天秤の皿には何も乗っていなかったはずなのに今では真っ黒なモヤが浮かんでいて、それはぐるぐると渦を巻きながら徐々に大きくなり、その度に天秤が益々傾く。
『ワァ。大きイネ、大きイネ。どれだけの罪を犯してきたのヤラ』
『目視出来ちゃうト、呆れを通り越しテ、単純に『凄いな』って思っちゃうヨ』
「な、何なのよ、本当に!何でワタシがこんな目に?——ワタシは聖女候補なのよ?こんな事をして、神が赦すと思って?」
焦りと戸惑いと、そして怒りが入り混じった酷い声だが、二匹の心には全く響かない。むしろもっと激しく詰問したい気持ちをグッと堪えるのに必死な状態だ。
『いやいヤ。そもそモ、怒っているのはその『神様』だかラ、アタシらが怒られる事は絶対に無いヨ』
『そうソウ。そもそも今のボク達ハ、あのお方達の代理猫みたいな者だモノ。創造物に対して直接手を下せないから今までは放置していタリ、慈悲だけはあげていたケド、『お気に入り』をボロボロにされて一番怒っているノハ、あのお方達だからネェ』
『違うヨ。一番じゃないヨ、ロロ』
『アァ、一番はトト様カ。じゃあ、二番目?』
『二番目はアタシ達でショ』と言って、白猫が背中を逆立てた。『ロロ』と呼ばれた黒猫は、『確カニ』と素直に頷く。
「何なの?何なのよ、もう!訳がわかならないわ!」
もう膝下が全て闇の中に取り込まれ、その中では無数の蛇や小さな虫やらが脚に纏わりつく不快な感覚がある。あまりの気持ち悪さでティアンは叫び、泣き、悲鳴をあげているが、二匹の表情は冷たいままだ。
『…… 全然わかっていないアナタ二、こうなっている理由を教えてあげルヨ。ボクらは優しいかラネ』
黒猫が、ふっと笑ってティアンに少しだけ近づく。そのせいで彼は真っ黒な闇を柔らかそうな足で踏んだが、黒猫はソレには取り込まれぬまま普通に歩いている。
『あのネェ、アナタが使っていたあの体ハ、元々は皆二『カーネ』と呼ばれていた御人の物だったんダヨ』
『それをねェ、あの御人の魂に張り付いテ、しがみついテ、絡みついテ、喰らいついて一向に離れようともしなかったアナタガ、無理矢理胎の中で乗っ取ったんダ』
白猫もティアンの側へ歩いて行く。同じく彼女の小さな足も、闇の中に沈む事はなかった。
『優しい優しいテラアディア様的にハ、一度はやり直させテ、今度は仲良く出来るみたいだったのなラ、もう赦してあげるつもりだったみたいなのにネ』
『お前は神様のそんな優しさを汲み取りもセズ、懲りずに体を乗っ取リ、虐め倒シ、顔を焼キ、最後にはコレなんだモン。今頃、神様は苦艱に顔を顰めているんじゃないカナ』
『そんなテラアディア様をルナディア様が慰めてあげるわけだネ。ルナディア様的には役得デ、今頃内心狂喜乱舞してるんじゃなイ?』
顔を見合わせ、『『かもネ!』』と言って二匹が笑う。『——オット』と一言こぼし、脱線した話を元に戻そうとロロが咳払いをした。
『とマァ、前世からの繋がりのせイデ、運良くその容姿を得ていただけだッテ、わかったカナ?』
『だからネ、本来の持ち主に返してあげるノ』
「じゃ、じゃあ体を入れ替えるだけでいいじゃない!早く戻らないと、婚約者であるメンシス様が待っているのよ!」
必死にもがき、下へ下へ今も尚己を取り込もうとする闇からティアンはどうにかして逃げようとするが、無駄な行為でしかなかった。体は沈む一方で、もう太腿すらも見えなくなっている。そのうえ、自分の肌を無数の“何が”が噛んでいる感触がある事にティアンは気が付いた。小さくとも鋭い歯が肌を食い破り、血管の中にも生き物が入り込んでくる様な痛みと不快感が半身を駆け抜ける。
「ぎゃあああああああああ!」
『待っていなイヨ。あのお方ハネ、絶対にアナタを愛さないカラ』
『前だってそうだったじゃなイ。忘れたノ?……あぁ、忘れているんだったわネ』と意地の悪い声で言い、白猫はクスクスと笑った。
『デモ、安心シテ。アナタは消えたりしなイヨ』
『此処でネ、今みたいに意識があるまマ、永遠に脚と腕を食われるノ』
『ヒトから奪って得たご自慢のその『容姿』モ、何度も何度も喰わレテ、皮ごと剥がレテ、骨だけの姿にしてあゲル』
残忍な言葉を聞き、ティアンが言葉にならぬ悲鳴をあげる。
「——な、何だって、そんな事するの⁉︎ワタシが何をしたって言うのよぉぉ!」
『『アナタ達が昔やった事ガ、その身に返ってくるだけサ』』
二匹の声が綺麗に重なった。
『アナタ達ハネ、遥か昔に初代の聖女だったカルム様を殺しタノ』
『臨月の腹では自由に動けないのを良いことニ、カルム様の腕ヲ、脚ヲ、アナタは四人の神官に食わせたのヨ』
「何言ってるの……そんな酷い事する訳がないでしょう⁉︎——人違いよ、ワタシじゃないわぁぁぁぁ!」
『確かニ、アナタは『食ってはいなかった』ネ』
白猫のララが同意すると、「で、でしょう?だからもう解放して!この際、あ、あの子の体でもいいから、元の場所に返して頂戴!」と泣きながら必死に懇願する。絞殺されて既に遺体となった身にいくら魂を戻そうが、すぐに現世を去る事になるだろうに、恐怖で頭が回らずその結果に行き着けない。
『アナタはネ、過去世でカルム様の首から上の皮を全て剥いデ、それを被って我が物にしたんだヨ』
「——は?……出来る訳、ないじゃない」と返すティアンの声が震えている。
『アァ、黒魔術を使ったカラ、すっかり見た目だケハ、随分と綺麗になっていタヨ』
『二代目の聖女として太陽の神殿に君臨するくらいにハ、他人を騙せていたネ』
「そ、それって……まさか、あの『リューゲ様』が、ワタシの前世だって言う訳?」
『うン、そうだヨ。覚えていなくてモ、聖女を殺した罪はとても重たいノ。あの一件でルーナ族との融合も出来なくなったシ、五人のせいデ、本来辿るべき歴史が完全に狂ったんだかラ』
『“ヒト族”から神の加護が消えたノモ、オマエ達が欲深かったからダヨ』
「知らない……知らない、知らない知らない知らないってば!ワタシじゃない!」
『せめて今世では良い事をしていれバ、公平で寛大なアノ天秤が罪を軽くしてくれたのにネ』
その言葉を聞き、一縷の望みを持ってティアンが天秤を見上げた。だが、真っ黒な塊が片方の皿の上で渦巻いてはいるが、もう一方は空っぽなままだ。
「嘘!嘘よ!嘘嘘嘘ばっかり!ワタシはいつだって妹に優しかったわ!冷遇されて可哀想なあの子を、皆から庇ってあげていたんだから!」
『でもそれって人目がある時だけだっタシ、自分を持ち上げる為ニ、内心ほくそ笑みながら憐れむフリをしていただけだヨネ』
的を得た事を黒猫に言われ、ティアンの肩がビクッと震えた。何故そこまで知っているのかと思うとそら寒いものを感じる。
『諦めたラ?もウ、胸まで闇に囚われてるんだシ』
『そうソウ。嫉妬と羨望と執着に狂った自分の罪ヲ、そろそろ償うんダネ』
耳元近くで声が聞こえ、ティアンが自分の様子を再確認する。すると彼らの言う通り、彼女の体はもう胸の辺りまで闇の中に飲み込まれ、腕も何も完全に囚われて踠く事すら出来なくなっていた。
『今回はモウ、前みたイニ、『双子だから』って理由で『姉の魂』に縋って逃げる事も無理ダヨ』
『虐めテ、いびっテ、最後は締め殺しテ。自分の手デ、完全に二人の『縁』を切ったんだかラ』
両サイドの耳元で、猫達はティアンに現実を突き付けた。絶望し、目の前が真っ暗になって悲鳴も上げられない状態になっていくティアンの顔をじっと間近で見詰め、彼らがニタリと笑い、弧を描く口をゆっくりと開く。
『『さようなラ、「叔母さン」』』
(何の事?何を言っているの?)
相変わらず二匹の言う事が全く理解出来ない。他人が犯した罪なのに『お前が償え』と押し付けられているとしか思えず、ティアンには到底受け入れられない。なのに体はもう鼻の辺りまで闇に沈み、その中では肌が無数の小さな捕食者達に食い荒らされていく。気絶も出来ず、痛みと苦しみが全身を支配し、理不尽さしか感じられず、悔しさと怒りがティアンの瞳を燃やす。
だが二匹には、“ティアン”がまだ二代目の聖女・“リューゲ”だった頃の記憶を返す様な親切をしてやる気など微塵も無い。
彼女の魂が犯した罪は、心から悔い改め、深く反省せねば赦しを得る事は永遠に無い。
だが聖女殺しの罪を犯した記憶が無いだけでなく、カーネを虐め倒した挙句に絞殺した事への罪悪感すらも感じてなくては反省のしようもない。このままではティアンには一切の救いも無く、永遠に監獄の中で苦しみ、のたうち回る事となる。だが、二匹は『それでいい』と思った、『そうであるべきだ』と考えた。
初代聖女・カルムの胎の中で、母が最も信頼していた者達の手によって、母を守れぬまま共に殺されていく恐怖を味わった彼らは、未来永劫彼女達を許す気なんかさらさら無いのだから。
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