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野茂れわる
32
河乃或葉
16
吾輩は猫である、という小説があるらしい。
読んだ事はない。
なんせ吾輩は猫だからだ。
文字が読めないのは不便だが、人間たちの会話を聞いていれば、世の中の仕組みは大体わかる。
吾輩の飼い主は、売れないミステリー作家の青年レン。
彼はいつも四畳半の部屋で頭を抱え、原稿用紙、最近はパソコンという四角い光る箱に向かって唸っている。
「どうして密室から犯人が消えたんだ……。自分で仕掛けたトリックなのに解決策が思いつかない……」
レンはそう言って吾輩の頭を撫でる。
吾輩の毛並みを整えることで、彼の縮こまった脳味噌の皺も少しは伸びるらしい。
吾輩は「にゃあ」と短く鳴き、彼の足元に丸まった。
人間というのは、自分で問題を作って自分で苦しむ、なんとも奇妙な生き物である。
しかし、ここ数日のレンの様子はおかしかった。
ただの執筆スランプではない。何かに怯えている。
夜、彼が眠りについた後、部屋の隅にあるクローゼットの扉が「ガタリ」と微かに揺れるのだ。
風の悪戯ではない。吾輩の鋭い耳は、その奥から「カリ、カリ」と、何かが爪で木を引っ掻くような音を捉えていた。
ある日の夜、レンはついに恐ろしいものを見るような目でクローゼットを見つめ、吾輩を強く抱きしめた。
「……いる。あの中に、僕が書いた『犯人』がいるんだ…。」
レンの言葉は震えていた。
妄想だと笑うのは簡単だが、吾輩の鋭い髭は、そのクローゼットの奥から漂う不穏な「世界の歪み」をはっきりと感知していた。
翌日、レンが気晴らしの散歩に出かけた隙を見計らい、吾輩は行動を起こした。
音もなく床に降り立ち、問題のクローゼットの前へ進む。
前足で器用に隙間を作り、中へと滑り込んだ。ハンガーに吊るされたレンの古い上着をかき分け、一番奥の壁に触れた瞬間――。
ぐにゃり、と空間がねじれた。
気がつくと、吾輩は冷たいコンクリートの床に立っていた。
頭上を見上げると、夜空には四角い月が浮かんでいる。
まるでお盆のような、あるいは原稿用紙の一マスの集合体のような、不自然な月。
そこはレンの四畳半の部屋ではなく、彼が書きかけのまま放置しているミステリー小説の舞台――夜の美術館のロビーだった。
「はぁ……。私はこれから、一体どうすればいいんだ……」
暗闇の向こうから、ひどく落ち込んだ男の声が聞こえた。
見ると、展示ケースの影に、黒いトレンチコートを着た男が体育座りで項垂れていた。
彼こそが、レンがクローゼットの奥に気配を感じていた『犯人』だった。
「にゃあ」
吾輩が声をかけると、犯人の男は顔を上げた。
「おや、猫か。……聞いてくれよ。私の作者は、私に『厳重な警備の美術館から、美術品を盗み出して密室から消え失せろ』というプロットを与えたんだ。私はその通りに、お宝を手に窓もドアも完全にロックされたこの部屋に身を潜めた。……なのに!」
男は頭を抱え、床をカリカリと爪で引っ掻いた。
夜な夜な響いていたあの音の正体はこれだ。
「あの作者、肝心の『脱出トリック』を思いつかないまま、執筆を止めてしまったんだ! 続きが書かれないから、時間が一歩も前に進まない。私はこの密室の中で、どうやって消えればいいのか解らないまま、ずっと待っているんだぞ? 完全に八方塞がりだ……」
犯人の男は、悪党というよりは、上司の無茶振りに振り回される哀れな中間管理職のようだった。
吾輩は文字こそ読めないが、現場の状況を観察することはできる。
男の後ろには、頑丈に閉ざされた正面ガラス扉。そして壁の上部には、人間が一人通るのがやっとの、小さな搬入用のダストシュートがぽっかりと口を開けていた。
吾輩は男の足元に歩み寄り、そのトレンチコートの裾をぐっと引っ張って、ダストシュートの下へと誘導した。
「なんだい? そこはただの荷物用ダストシュートだよ。人間は通れない。お宝の入った薄い額縁くらいしか……」
そこで男はハッと目を見開いた。
「……そうか! 私は何も、お宝を抱えたままここから消える必要はなかったんだ。先に額縁だけをここから外へ滑り落とし、空身になった私は、ただの『一般客』のふりをして正面から堂々と退館すればいい。そうすれば、警察も私を犯人だとは見抜けない。これこそが、完璧な密室の解決法だ!」
男の顔に輝きが戻った。
「ありがとう、名探偵。これで私の物語は動き出す」
男が満足そうに微笑んだ瞬間、世界の景色が激しくブレ始めた。レンの頭の皺が伸び、物語の「ロジック」がつながったのだ。
ハッと気がつくと、吾輩はいつものクローゼットの中、レンの古い上着の間に挟まれていた。
外からは、お馴染みの猛烈なキーボードの打鍵音が響いている。
「これだ! 完璧なトリックを思いついたぞ! 犯人は最初から現場に立てこもっていたわけじゃない。盗んだ物を先に外へ滑り落とし、自分はただの容疑者の一人として部屋から出ていったんだ!」
レンの歓喜の叫び声。
それと同時に、クローゼットの奥を支配していたあの妙な冷気と、世界の歪みのような気配は、綺麗さっぱりと消え去っていた。物語が正しい軌道に戻り、あちら側の世界が閉じたのだ。
吾輩はクローゼットから這い出し、机に向かうレンの足元へ歩み寄った。
レンは四角い箱に向かって、取り憑かれたように美しい解決編を書き進めている。もう彼の表情に怯えはない。
「にゃあ」
吾輩は満足して目を閉じた。
文字は読めなくとも、世の中の帳尻を合わせるくらい、猫の手にかかれば簡単なこと なのである。
【クローゼットの犯罪者】
コメント
2件
めっちゃ可愛いです💕 すごく読みやすい、図書館とかに置いてほしい♥️
ああ、もう最高に可愛くて洒落てる……! 猫が語り手で、しかも「書かれたまま放置された犯人」がクローゼットの奥から作者を悩ませてるっていう発想、めちゃくちゃ好きです。ダストシュートに気づくシーン、猫が「文字は読めないけど現場は観察できる」って飄々と解決に導くところがもう、ツボでした。レンがひらめくラストも、創作の現場の苦しさと喜びがぎゅっと詰まっててじんわりしました。続き、めっちゃ気になります!