テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第1話「名前の波が聞こえない日」
登場人物:ナミネ=シエラ(潮属性・1年)
朝の水面に、きのうよりも濃いゆらぎが浮かんでいる。
ナミネ=シエラは、潮属性1年。
髪は肩より少し下まである銀で、耳元でゆれるのは貝殻のような髪飾り。
肌は薄い水色がかった白で、指先には海藻のような模様がわずかに浮いていた。
制服は潮属専用の青緑のセーラー。波のようなラインが裾に走っている。
今朝も、波域手帳に書く名前が思い出せなかった。
──わたしの、なまえ。ナ……なんだっけ?
ページの上に、名前を書く欄がある。
でも、今日はその“波”が届いていない。
音が、うすくなっているのだ。
呼ばれているはずの名前が、耳に届かない。
教室では誰かが「ナミネ」と確かに言っていた。でも、それが自分を指しているのか確信が持てない。
ソルソ社会では、「波」が名前の音を運ぶ。
水中放送も、波域連絡も、会話すらも。
すべてが共鳴でつながり、感情で形を変える。
だから“名前が聞こえない”のは、個性が海とつながらなくなっているサインだ。
それは「変質」に失敗しかけている、ということ。
放課後、ナミネは教室を出て、潮属寮に戻る途中、水草水槽の前で足を止めた。
誰もいない。水面には、ゆっくり泡がのぼっている。
──聞こえないのは、わたしのせいかな。
──それとも、誰かがもう呼んでくれなくなったのかな。
静かな波だった。名前の音はなかったけれど、海藻の揺れが、彼女の感情に似ていた。
「……ナミネ」
誰かがそう呟いた気がして、彼女は顔を上げた。
でも誰もいない。ただ、水槽の端にメモ帳の切れ端が一枚、濡れていた。
《本日の泡:感情浅め。呼吸、静か。名波、かすかに記録。──記録者:S》
S──たぶん、シオ=コショー先生だ。
たまに水槽を見に来て、掃除して、何も言わずに去っていく。
彼の記録は誰にも見せていないはずなのに、なぜか、ここにあった。
ナミネはそっと、そのメモの隅に自分の名をなぞった。音が、ほんのすこし、水に溶けた。
名前の波は、聞こえなかった。
でも、波はそこにあった。
だれかが残したさざ波が、今日のわたしと重なった。
──それだけで、変わらなくていい気がした。
──変わらなくても、波はゆれるのだ。