玄関の戸が、軋む音を立てて閉まった。その音を合図にしたかのように、家の奥の空気が一変する。
夜風の残り香は、扉の向こうで遮断され、重たい家の匂いが肺を満たしていった。
遥は玄関にしゃがみ込んだまま、しばらく動けなかった。
日下部の背中が、月明かりに薄く滲んで消えていくのを、心のどこかで見送ってしまったことが悔しかった。
なのに、身体は動かない。頭は鈍く、視界の端だけが妙に冴えていた。
奥から笑い声がした。
晃司と颯馬の声。
小さくもなく、大きくもなく、感情の温度がわからない声。
その曖昧さこそが、遥にとっては一番の恐怖だった。
「おかえり」
晃司が言った。
その言い方は挨拶の形をしていて、実質は命令だった。
言葉の裏に潜む刃を、遥の肌はもう何百回と覚えている。
「遅かったな」
颯馬が続く。
声の端に、乾いた笑いが混じっていた。
遥は答えなかった。
答えれば、そこで火がつくとわかっている。
答えなくても火はつくとわかっている。
それでも、無言を選ぶしかない。どちらがまだマシかを、その瞬間ごとに賭けて生きるしかない。
玄関を上がると、床の冷たさが足裏にまとわりついた。
裸足のまま、息を潜めて廊下を歩く。
目だけが二人の位置を探している。
「どこ行ってた?」
遥の背中に冷たいものが走った。
その質問に答えられる言葉はない。
「ちょっと」
絞り出した声は、自分のものと思えないほどかすれていた。
二人が、同時に笑った。
それは冗談の笑いではなかった。
息を合わせた、訓練された獣の呼吸のような笑いだった。
「へえ。ちょっと、ね」
「おまえ、誰とちょっとなんだよ」
「おい、目ぇ見ろよ」
最後の言葉で、遥の胸がきゅっと縮んだ。
顔を上げるしかなかった。
二つの視線が同時に絡みついてくる。
空気が重くなり、頭の奥で鐘が鳴るように血が音を立てる。
「日下部か」
その名が出た瞬間、遥の喉が勝手にひくりと動いた。
晃司がその反応を逃さなかった。
「ほう。やっぱりな」
「隠してんじゃねえよ」
吐き捨てるような声。
吐息に混じるアルコールの匂い。
遥の視界が狭まり、手足が冷たくなる。
何も言えない。
言葉を持てば、その瞬間に崩れる。
唇の裏を噛み、味のしない血を飲み込む。
「おまえ、ほんとに自分で選んでると思ってんの?」
「おまえのことなんか誰も本気で要らねえよ」
その言葉が、刃物のように胸に刺さる。
知っている言葉だった。
心の奥の底で自分自身が何度も繰り返してきた言葉だった。
けれど他人の口から聞くと、なぜこんなにも痛いのか。
晃司と颯馬の声が遠くで響く。
床が軋む音。
壁にかかる時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。
自分の鼓動と時計の音が、ぴたりと合わさって耳を打った。
(日下部、帰っちゃったな)
頭のどこかで、誰かが囁く。
(そりゃ帰るよな。俺が拒んだからだ。俺が巻き込みたくないって言ったんだ。俺が、俺が……)
胸の奥に、細くて黒い笑いが浮かんだ。
それは泣き声と紙一重だった。
笑えば笑うほど、内臓が痛む。
笑いが自分を守っているのか、自分を壊しているのか、もうわからなかった。
「黙ってないで、何か言えよ」
颯馬が言う。
「なあ、遥」
その声がひどく遠い。
耳鳴りがする。
視界の端が白く滲む。
遥はただ小さく、うなずくふりをした。
それが精一杯だった。
胸の奥で、もう一度、日下部の声が蘇る。
――どうしたらいいんだよ、遥。
その声が、内側から自分を割るように響く。
返事をしたい。
返事をしたいのに、声が出ない。
家の匂いに、家の音に、全部が呑み込まれていく。
夜はまだ長い。
時計の針は動いているのに、時間は進まないように感じられた。
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