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夜の街は、雨上がりの匂いをまだ抱いていた。
蓮司は喫茶店の外に出て、ポケットの中でタバコを指先で弄んだだけで、火はつけなかった。向かいに立つ沙耶香が、傘の柄を握りしめながら黙っていた。
「……言い方、甘かったな」
ぽつりと漏れた蓮司の言葉に、沙耶香は目を細める。
「誰に?」
「遥に決まってんだろ」
苦く笑って、蓮司は空を見上げた。
「本当は、もっと突いてやるべきだった。あいつの“優しさ”なんて、半分は逃げだ。罪悪感で動いて、傷つくまでやめねぇ。……それくらい、俺にはわかってたのにな」
沙耶香は、少しだけうつむいた。
「優しいじゃん、それ」
「優しい、ね……」
蓮司は笑いながらも、言葉を吐くように続ける。
「俺、優しさって言葉、嫌いなんだよ。あれはいつも誰かを救うように見えて、結局は“何もしない自分”を正当化する逃げ道にもなる。俺も昔、それで何人か壊した」
その声は静かだったが、どこか底の見えない疲労が滲んでいた。
沙耶香は一歩、近づく。
「だから遥に重ねたの?」
蓮司は目を伏せる。
「……かもな。俺はあいつを見てると、やたら昔を思い出す。どうしても助けたいと思った誰かに、何もできなかった時のことを」
沈黙が、雨粒の残るアスファルトの上に落ちた。
沙耶香は傘を少し傾けて、蓮司の顔を覗く。
「ねぇ、蓮司。あの子に“突けなかった”の、本当に同情だけ?」
「どういう意味だよ」
「あなた、遥のこと責められないんだと思う。だって——“優しさの使い方を間違える人間”が、あなた自身だから」
その一言で、蓮司は少しだけ笑った。
「……やっぱ、お前はよく見てる」
「伊達にあなたと付き合ってない」
「まったく。沙耶香は人の腹を平気で裂くな」
「裂かないと、あなた喋らないでしょ」
ふたりの間に、ようやくわずかな笑いが戻る。
けれど沙耶香の目はまだ冷静だった。
「蓮司。あの子を甘やかすのは、優しさじゃない。あの子の中には、あなたよりずっと深い“破壊”がある。放っといたら、ほんとに誰かを壊すよ」
蓮司は頷きかけて、そして首を振った。
「わかってる。……でも、俺にはあの顔に向かって“お前が悪い”なんて言えねぇ。あいつ、もう散々言われてきただろ。親からも、兄弟からも、世界からも」
「だからって、あなたまで庇ってどうするの」
「庇ってるつもりはねぇ。……ただ、あいつが自分の“痛み”で他人を理解できるようになるまで、俺が壊すのは違う気がした」
沙耶香はその言葉に短く息を呑んだ。
そして、少しだけ目を細めて微笑んだ。
「優しいじゃん」
「だから、それが嫌なんだよ」
蓮司はぼそりと呟いた。
「お前と出会ってから、俺の“壊す力”が鈍った。……もしかしたら、それが一番の甘さかもな」
沙耶香は、何も言わなかった。ただ傘を傾け、ふたりの肩を同じ影に入れた。
遠くの信号が青に変わる。光が雨粒を照らし、彼女の横顔を薄く滲ませる。
蓮司はその光景を見つめながら、煙草を握りつぶした。
煙は上がらなかった。