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目を開けたとき、最初に見えたのは薄い麻布の天井だった。
どうやら炊き出し台の上へ簡易の寝床が組まれているらしい。鼻先をくすぐったのは薬湯ではなく、麦を煮る甘い湯気だった。生きているのだ、とイルネリオはぼんやり思う。喉はひりつき、腕は鉛のように重い。それでも胸の奥に、昨夜のような焼けつく痛みは残っていない。
外では、朝の鍋蓋が鳴る音と、石を積み直す槌の音が交互に響いていた。
長い夜が終わっても、ルメリアは寝込んではいないらしい。
「起きた?」
横から差し出された木杯を受け取ると、中身はぬるめの蜂蜜湯だった。フロイディスが目の下に濃い影を作ったまま、けれど昨日よりよほどましな顔で立っている。
「いきなり粥はだめ。まずそれ。飲めたら呼んで」
「あなた、寝てないでしょう」
「寝てないけど、今それを言う立場じゃないでしょ」
そう言いながらも、彼は杯が空になるまでその場を動かなかった。
上体を起こすと、炊き出し台のまわりがよく見えた。広場の石畳には昨夜の煤がまだ残っている。だが、壊れた桶は脇へ寄せられ、折れた槍は束ねられ、朝食用の長机まで並び始めていた。町が自分で自分の朝を始めている景色だった。
西門のほうから、聞き慣れた間の長い声が飛んでくる。
「……門、三つ数えてから開けろ」
ガータムだ。相変わらず返事は遅いのに、鐘の間隔だけは狂いがない。門上では兵たちが板をかけ直し、城壁の下ではアクバルが若い者へ座ったまま包帯の巻き方を教えている。座らせてから話をする、あの癖はこんな朝でも変わらない。
少し離れた場所では、シャルヴァが煤だらけの楯を並べていた。割れた箇所へ金具を当てながら、
「飯のあとに殴られた傷は、食う前より粘るな」
と誰にともなく言い、聞いていた兵たちを苦笑させている。ニコリナは広場の端で壊れた譜面台を片手に、朝の伝令を歌ではなく早口でさばいていた。声がかすれているのに、町じゅうの噂まで拾う余裕はあるらしい。
グンナルはもっと露骨だった。荷車の上へ帳簿を置き、
「寄付と売掛は別だ! 昨夜の鍋代を勝手に英雄譚へ混ぜるな!」
と怒鳴っている。ところが怒鳴られた住民のほうは笑っており、むしろ自分から銅貨を置いていく。昨夜を生き延びた町では、踏み倒しより先に返したい借りが増えるのだと、イルネリオはぼんやり思った。
「ぼうっとしてると、また寝かせるわよ」
振り向くと、レオニナが立っていた。
補給隊の上着は着替えていたが、腰にはいつもの帳面、手には炭筆、そして胸元には見慣れない白い布がのぞいている。よく見ると、昨日の麻のエプロンを洗って干し、乾ききらないまま畳んで挟んでいるのだった。
「それ、まだ持ってたんですか」
「捨てる理由がないもの」
彼女はそう言って、炊き出し台の縁へ帳面を置いた。
「王都へ早馬を出したわ。北の谷の鬼群が退いたこと、砦と城下が持ちこたえたこと、避難命令のせいで補給線が崩れかけたこと、全部。ついでに、放棄したら王都の北商路が自分で詰まるって数字も添えて」
「ずいぶん、はっきり書いたんですね」
「ええ。昨日まで遠慮していたぶんも含めて」
そう言った横顔は、疲れているのに妙に晴れて見えた。
昼前になると、街外れの祠からコンスエラも来た。
彼女はイルネリオの額へ指先を当て、しばらく黙ってから肩をすくめた。
「角そのものは引いたね。けど、印は消えない。完全に元の書庫係へ戻るってわけでもない」
「……やっぱり」
「落ち込む顔じゃないよ。味はまだわかるんだろ?」
試しに差し出された塩気の薄いスープを飲むと、イルネリオには、どの鍋が南井戸の水で、どの鍋が東の貯水樽の水かまでわかった。昨夜ほど鋭くはない。だが、食べる者の呼吸がそろいやすい温度や、緊張で固い肩がほどける香草の分量なら、まだ手が届く。
「残ったのは、人を食う鬼の力じゃない。人が食べて生きるほうを助ける手つきだよ」
コンスエラはそう言って、祠から持ってきた小さな鈴を炊き出し台へ置いた。
「鍋のそばに吊っておきな。守り手ってのは、だいたい台所に落ち着くもんさ」
その日の夕方、王都から返書が届いた。
砦放棄の撤回。ルメリアを北境防衛の継続拠点とし、補給の再建を急ぐこと。さらに、夏至防衛の実績を踏まえ、夜間の兵站食と住民向け炊き出しを兼ねた市の開設を正式に認めること。
広場が一度しんと静まり、次の瞬間、あちこちで息を吐く音と笑い声が重なった。勝った実感は夜明けの時点ではまだ薄かったのに、この一文は町じゅうの肩から最後の重しを外したらしい。
ガータムは紙を見ても相変わらず返事が遅かったが、
「……なら、西門の明かり、減らさずに済むな」
とだけ言った。たぶん彼なりの歓声だった。
カリドウェンは槍を肩へ担いだまま、
「で、正式に開くなら採点はもっと厳しくなるぞ」
と屋台の鍋をのぞき込み、昨日死地をくぐった顔で平然と新作の催促をした。アクバルはその後頭部を軽く叩き、
「まず礼を言ってから食え」
と諭す。ニコリナはそのやり取りをそのまま節に乗せ、広場の子どもたちは笑いながら壊れた長椅子を運んだ。
再開の準備は、三日で整った。
北壁の修繕が終わり切る前に、屋台の屋根へ新しい葦すだれが吊られる。グンナルが帳面片手に木材代を渋り、シャルヴァが「看板ぐらい楯の端材で作れる」と言い張り、結局ふたりとも最後には黙って手を動かした。フロイディスは診療所帰りのまま鍋番へ入り、ニコリナは開店前から席順に口を出す。
騒がしい。けれど、その騒がしさがもう失われないもののように思えた。
開店初日の夜、風はぬるく、葦すだれが音もなく揺れていた。
イルネリオが鍋へ顔を寄せていると、背後で紐を結ぶ気配がした。振り返れば、レオニナが補給隊の袖を肘まで折り、あの日の麻のエプロンを今度はきちんと腰へ結んでいる。
「帳場は私。鍋はあなた。異論は?」
「ありません」
「看板の名前、決めた?」
そう問われて、イルネリオは屋台の梁に掛けられた木板を見上げた。まだ無地のままだ。三日前から考えていたのに、最後の一文字が決まらなかった。
「鬼守りの台所、はどうでしょう」
レオニナは一度だけ目を細め、それから木板とイルネリオを見比べた。
「いいわね。大げさすぎないのがいい」
「もっと補給台っぽい名前がいいかとも」
「それだと客が減るでしょ」
まじめに返されて、イルネリオは笑った。笑いながら、やっと胸の奥の最後の強張りまでほどけていくのがわかった。
夜の客は、兵だけではなかった。
畑から戻った家族連れ、修繕帰りの石工、診療所へ差し入れを運んだ帰りの娘、遅番を終えた門番、そして何の用もないのに顔を出す常連たち。誰かが椀を受け取るたび、葦すだれの下に灯りが増えるようだった。
カリドウェンは一口目で眉を上げ、
「前より塩が丸い」
と偉そうに言ったあと、二杯目を当然の顔で要求する。ガータムは閉門前ぎりぎりに来て、湯気を見つめたまま五口で平らげた。アクバルはいつもの椅子を自分で運び込み、ニコリナは客席で勝手に歌い出し、フロイディスは忙しい顔で嬉しそうに皿を洗う。グンナルはしっかり釣り銭を管理しながら、こっそり常連の子どもへ揚げ菓子を一つ多く載せた。見ないふりをしたのは、たぶんレオニナだけではない。
ひと波引いたところで、レオニナが帳面を閉じた。
「今日の売上、悪くないわ」
「補給台帳の数字として?」
「屋台の数字としてよ」
そう言ってから、彼女は少しだけ声を落とす。
「ねえ、イルネリオ。これから先、結界が揺れる夜はまた来ると思う。でも、そのたびに一人で抱え込む顔をしたら、次は先に鍋を取り上げるから」
「取り上げられるのは困ります」
「なら、最初から言うこと」
叱る口調のはずなのに、最後だけ笑っていた。
イルネリオは湯気の向こうのその顔を見つめ、胸の奥に残っていた言葉をようやく口へ乗せた。
「帰る場所ができました」
「いまさら?」
「ちゃんと言っておきたくて」
レオニナは答えず、代わりに空いた椀を一つ差し出した。
「じゃあ、まかない。店主が先に座ると客が来るわよ」
「そんな験担ぎ、ありましたっけ」
「今決めたの」
葦すだれの下を抜ける夜風は、戦いの前より少しだけ夏に近かった。
鍋の湯気の向こうで、町の灯りが静かに揺れている。西門も、北壁も、広場の長机も、もう昨夜の死地には見えない。誰かが明日の仕込みの相談をし、誰かが皿の返却を忘れて呼び止められ、誰かが笑う。そのありふれた騒がしさが、砦を守るいちばん確かな壁なのだと、イルネリオは知っていた。
だから彼は、椀を受け取ってから、ちゃんと店の内側へ足を入れた。
エプロン姿のレオニナが、帳場の向こうで顔を上げる。
「遅い」
その一言に、叱る響きはほとんどなかった。
イルネリオは鍋の柄へ手をかけ、湯気の向こうの顔へ笑い返した。
「ただいま」