コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
昼のチャイムが鳴っても、誰も立ち上がらなかった。
教室の空気が、何かを待っている。
窓際の蓮司が、弁当箱を閉じる音だけが響く。
「なあ、最近つまんねぇよな」
その一言に、いくつかの笑い声が返る。
それは合図だった。
斜め前の男子が、わざと大きな声で言う。
「じゃあ、“久しぶりにやるか”」
ざわめきが広がる。
誰も止めない。止めようとする空気が、最初から存在していない。
蓮司がゆっくりと席を立つ。
視線の先――遥。
彼は教科書を閉じずに、ただ俯いていた。
何が始まるか分かっている。けれど、何もできない。
机をひとつ、コンと鳴らす音。
それだけで、教室の重心が動いた。
笑い声、囁き声、紙くずが飛ぶ。
誰かが遥の机に手をかけ、わざと傾ける。
誰かが背中を軽く叩き、「おっと、反応したぞ」と笑う。
蓮司は一歩も動かない。
ただ、その光景を見ている。
監督者のように。
彼が何も言わないからこそ、周囲はどんどん饒舌になる。
「もっと優しくしてやれよ」
「こいつ壊れねぇんだもんな、丈夫だよ」
「お前さ、痛いとか言えよ。つまんねぇから」
笑いが波のように広がっていく。
遥の中で何かが微かに軋む。
声を出せば、もっと笑われる。
黙れば、興味を引く。
どちらにしても、終わりはない。
蓮司の目が細く光る。
「お前ら、ちゃんと見とけよ。これが“耐える”ってやつだ」
その言葉が合図となり、いくつかの携帯のシャッター音が鳴る。
写真が、笑いに変わる。笑いが、命令に変わる。
――地獄は、誰かの指示で始まるんじゃない。
誰かの笑い声で、勝手に動き出すんだ。
遥は拳を握ったまま、何も言わなかった。
声を出した瞬間に、自分が「彼らの遊び」に戻ると分かっていた。
沈黙は抵抗のようで、実際は降伏だった。
廊下の向こうから、掃除当番の声が聞こえる。
日常が戻ってくる。
その音に、遥の中でかろうじて何かが保たれていた。
蓮司は最後に、机の上の消しゴムを指で弾いた。
床に転がる小さな白。
「拾えよ。お前のだろ」
遥は動かない。
誰かが笑う。
「拾わねぇなら、また明日もだな」
蓮司は何も言わず、教室を出ていく。
その背中を、誰も“悪い”とは思わない。
楽しさの余韻だけが残る。
――それが一番の地獄だ。
誰も、自分が“加害者”だと気づかないまま笑っていられること。
遥は床の消しゴムを見つめた。
白は、もう白じゃなかった。