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昼のチャイムが鳴っても、誰も立ち上がらなかった。 

教室の空気が、何かを待っている。

窓際の蓮司が、弁当箱を閉じる音だけが響く。


「なあ、最近つまんねぇよな」


その一言に、いくつかの笑い声が返る。

それは合図だった。


斜め前の男子が、わざと大きな声で言う。


「じゃあ、“久しぶりにやるか”」


ざわめきが広がる。

誰も止めない。止めようとする空気が、最初から存在していない。


蓮司がゆっくりと席を立つ。

視線の先――遥。

彼は教科書を閉じずに、ただ俯いていた。

何が始まるか分かっている。けれど、何もできない。


机をひとつ、コンと鳴らす音。

それだけで、教室の重心が動いた。

笑い声、囁き声、紙くずが飛ぶ。

誰かが遥の机に手をかけ、わざと傾ける。

誰かが背中を軽く叩き、「おっと、反応したぞ」と笑う。


蓮司は一歩も動かない。

ただ、その光景を見ている。

監督者のように。

彼が何も言わないからこそ、周囲はどんどん饒舌になる。


「もっと優しくしてやれよ」


「こいつ壊れねぇんだもんな、丈夫だよ」


「お前さ、痛いとか言えよ。つまんねぇから」


笑いが波のように広がっていく。

遥の中で何かが微かに軋む。

声を出せば、もっと笑われる。

黙れば、興味を引く。


どちらにしても、終わりはない。


蓮司の目が細く光る。


「お前ら、ちゃんと見とけよ。これが“耐える”ってやつだ」


その言葉が合図となり、いくつかの携帯のシャッター音が鳴る。

写真が、笑いに変わる。笑いが、命令に変わる。


――地獄は、誰かの指示で始まるんじゃない。

誰かの笑い声で、勝手に動き出すんだ。


遥は拳を握ったまま、何も言わなかった。

声を出した瞬間に、自分が「彼らの遊び」に戻ると分かっていた。

沈黙は抵抗のようで、実際は降伏だった。


廊下の向こうから、掃除当番の声が聞こえる。

日常が戻ってくる。

その音に、遥の中でかろうじて何かが保たれていた。


蓮司は最後に、机の上の消しゴムを指で弾いた。

床に転がる小さな白。


「拾えよ。お前のだろ」


遥は動かない。

誰かが笑う。


「拾わねぇなら、また明日もだな」


蓮司は何も言わず、教室を出ていく。

その背中を、誰も“悪い”とは思わない。

楽しさの余韻だけが残る。


――それが一番の地獄だ。


誰も、自分が“加害者”だと気づかないまま笑っていられること。


遥は床の消しゴムを見つめた。

白は、もう白じゃなかった。



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