テラーノベル
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言い終わるのを待たず、鴻上さんは滑るように階段を駆け下り、私のパンプスを片手に、今度は飛び跳ねるように二段飛ばしで駆け上がって来た。
その間、三十秒もあっただろうか。
こんなに身軽な極上イケメンさんに、手摺りを掴んで一段ずつ上らせていたと思うと、申し訳ないやら情けないやら。
「はい」
けれど、当の本人はなんてことのない爽やかな笑顔で私の足元にパンプスを置いた。
壁に手をついて、あげていた片足を差し込む。
「何から、何まで……。本当に申し訳ありませんでした。ありがとうございます」
私に言えるのは、それだけだ。
「きみが無事で、本当に良かった」
彼の表情から、本心であると読み取れた。
「さ、行こうか」と、掌を仰向けに差し出される。
「え?」
「靴擦れ、痛いでしょ?」
どうして知っているのかは、あえて聞かなかった。けれど、その手を取る勇気はない。
「ありがとうございます。けど、大丈夫です」
「この手、引っ込みつかないから受け取って欲しいな」
そう言われても、と彼の手をじっと見つめる。
「あ、支えになるなら腕の方がいいか。手も汚れてるし」と、鴻上さんが手を下げて、くっと肘を軽く曲げた。
「手が汚いのは私の方で……」
ここまでされると、親切を断るのも申し訳ない。
私は汚れた手でスカートをパンッパンッと叩くと、バッグからウェットシートを取り出す。一枚を彼に差し出し、一枚で自分の手を拭く。
「ありがとう。準備がいいんだね」
それからようやく、私たちは歩き出した。
彼の腕にちょこんと手を添え、少しだけ引きずるようにゆっくり歩く。
始業時間が過ぎていることもあり、正面玄関には受付の女性二人が来客対応をしているだけだった。
我が奥山商事の社屋は、一階は受付と総務部総務課、A会議室。二階は営業部と小会議室、打合せブースが二つ。三階は|Excellent《エクセラン》と|HARU《ハル》マート。四階は企画部と総務部経理課。五階は人事部とB会議室。六階は重役室と特別会議室。地下一階は駐車場。
隣接する研究所では、新商品の開発と製造が行われている。因みに、研究所は現在六階建てに増築中。外観は既にできていて、内装工事をしている。
食品開発だけでなく、外部委託しているイベント関連商品の製造も自社で行うのだ。
受付奥のエレベーター前まで来て、私は鴻上さんの腕から手を離した。
「もう大丈夫です。ロッカーに社内用のサンダルがありますし。本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
「あ、クリーニング代は請求してください。それだけで足りないのはわかって――」
「――わかった。そうさせてもらうよ」
ポーンッと音と共に、エレベーターの扉が開く。
無人の箱に乗り込み、振り返って、お辞儀をした。
鴻上さんは、爽やかに極上イケメンスマイルで手を振ってくれた。
課には溝口さんから連絡が入っていたし、足を引きずる私を見て、心配こそされ叱られることはなかった。
今日は仕事も少なく、それぞれ溜まっていた雑務を処理する時間がありそうだ。
昼近くになって、ダル|重《おも》な身体が痛みだした。
大丈夫だと思ったけれど、階段から落ちそうになった時にどこか普段は使わない筋肉や筋を痛めたようだ。
ダイエットして体を鍛えなければ、とため息をつく。
そこに、私のデスクの電話が鳴った。外線ではなく、内線を知らせるメロディ。
「はい。人事二課の乾です」
『お疲れ様です。専務室です』
「……!?」
品のある、落ち着いていて柔らかな女性の声に、目が点になる。
しかも、『専務室』と聞こえた。普通、一般社員に専務室からの電話など、かかってこない。
ハッと顔を上げる。課長はつい三十分ほど前に打ち合わせに出たはずだ。
「申し訳ございません。課長は只今離席中――」
『いえ。乾さんにご連絡いたしました』
「わっ、たし……ですか」
『はい。急で申し訳ございませんが、専務室までいらしてください』
呼び出しとは急なものだ。
だが、呼び出される理由がわからずに困惑する。
それでも、社会人としてどう答えるべきかなど、考えるまでもない。
「かしこまりました。すぐに伺います」
私はゆっくりと受話器を置くと、立ち上がった。
「主任」と、つまらなそうにパソコンに向かう権田主任に声をかける。
「呼ばれたので専務室に行ってきます」
「はー……!? 専務室!?」
私自身呼ばれた理由がわからないのに、色々聞かれては面倒だ。
そそくさとエレベーターホールの一番端にある、重役フロア用エレベーターのボタンを押す。
エレベーターは三基あるが、六階に行けるのはこの一基だけ。
私がこのエレベーターに乗るのは、二度目だ。
一度目は入社時の社屋案内の時。
すぐさま扉が開く。
一般のものと変わりない箱に、六階まで連れて行ってもらう。
ポーンッという到着を知らせる音と共に扉が開く。
「お待ちしていました」
ほぅっと息が漏れてしまいそうなほどの美人さん。
我が社の秘書室は容姿、能力共にレベルが高いと聞いていたが、目の前の女性はその筆頭ではないかと思う。
私の半分しかない横幅なのに、私より十センチは背が高く、顔は私の拳くらいしかないと思う。何頭身かはぱっと見ではわからない。ストレートの黒髪は上品にハーフアップ。なんてことないネイビーのスーツなのに、シフォンの開襟シャツから覗く鎖骨が色っぽい。
切れ長の瞳は睫毛が長く、くりんっと上がっていて羨ましい。唇は鮮やかな紅で、艶々している。
「乾さん?」
ハッとして我に返り、目の前の美人さんを食い入るように見つめていたと気づいた。
「あ、すみませんっ」
「いえ。専務がお待ちです」
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