彼と彼女は結婚した。
だがそれは必ずしも幸せになることではなかった。
確かに彼女は彼のことが好きであったが彼はもうどうでも良かった。
彼は父が死に、キャバレーを経験し、初めてこの世に自分は似合わないのだと。
別の世がいいのだと確信した。
それはどうしようもないことだと皆は言うが彼はわかったのだ。
彼は死ぬのだ。
自殺とは愚かな行為ではない。
潔く嫌になった己の命を抹消することだ。
彼は今日死ぬのだ。
死ぬ日とわかっているのは不思議と心地よかった。
もう見ることはない風景をとんと目に焼き付けておきたい。
一日、彼女と過ごし、
何一言も話さなかった。
そんな生活を彼女は嫌だった。
だが言うわけにはいかなかった。
彼は夕暮れ、彼女に散歩に行くとだけ伝え、家を出た。
彼女は彼の行動を不思議に感じた。
ついていくことにした。
崖の上、
波が引いていた。
彼はこの景色を眺めた。
死ぬ前とは走馬灯とやらが見え、なかなか幻想的なものである。
彼は飛び降りた。
その姿を彼女は目撃し、止めようと思ったが、遅かった。
彼は真っ逆さまに落ちていったのである。
彼は笑っていた。
彼は飛び降りている間、ゆっくりと周りが見えた。
夕陽に照らされる海、崖、木々、そして彼女。
彼は人を愛せなかったがこの死ぬまでの数秒に、密かに感じた。
「人を愛すとはどんなものか…」
彼女は死にゆく彼にこう伝えたかった。
「人を愛したらよかったのに…」
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