放課後の光が沈みかけた頃、相談室のドアが静かに開いた。
入ってきたのは、目の奥がどこか乾いたような顔をした生徒だった。
席に座るなり、しばらく何も言わない。
日下部は、無理に声をかけず、ただ待った。
「……最近、泣けないんです」
ぽつりと落ちた声は、笑いとも溜息ともつかない。
「本当は、泣きたいことばっかりなのに。
悲しいとか、悔しいとか、そういうのもあるのに……涙が出ない。
泣いた方が楽になるのに、泣けない自分が、冷たく思えて、苦しくて」
日下部は少しだけ目線を落とした。
机の上の小さな光が、彼の指先にゆらめく。
「……泣くって、実は“勇気”がいることなんだよ」
「勇気?」
「ああ。
涙って、心の奥をさらけ出す行為だから。
泣けないときってさ、たぶん“心が壊れた”んじゃなくて、“守ろうとしてる”んだと思う」
生徒は、驚いたように顔を上げた。
「……守ってる?」
「泣くと、感情があふれて制御できなくなるだろ。
だから人間って、限界のときほど、涙を閉じ込める。
『泣いたら崩れる』って、どこかで分かってるから。
それは弱さじゃなくて、生き延びるための防衛反応だよ」
静かな沈黙が落ちた。
日下部は、窓の外を一度見やってから続ける。
「オレも昔、泣けない時期があった。
涙が出ないくせに、心だけはずっと痛くて。
でも、ある日ふと、何かの拍子に涙が出たとき――
あぁ、“まだ自分は感じられる”って思ったんだ。
それだけで、少し救われた」
生徒の目が揺れる。
「……いつか、また泣けるようになりますかね」
「たぶんな。
泣こうとして泣けるもんじゃないし、
無理に出そうとしても、心が追いつかない。
でも、ちゃんと感じる力が残ってる限り、涙はどこかで戻ってくる」
「……戻ってくる」
日下部はゆっくりと頷く。
「だから今は、“泣けない自分”を責めなくていい。
それも、生きてる途中の形だから。
冷たいんじゃなくて、必死に立ってるだけだよ」
生徒は、少しだけ目を細めた。
その目の奥に、かすかな光が滲んでいた。
「……泣けそうで、泣けないです」
日下部は、ふっと小さく笑った。
「いいよ。
今日は、それで十分だ」
夕暮れが静かに沈んでいく。
心の奥に張りつめていた何かが、少しだけ緩む音がした。
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