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❖古雫屋(こしずくや)
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◉電都三十(でんとみそ)
「……このエレベーター、降りたことある気がする」
階数表示は「5」で止まったまま。
けれど、誰もボタンを押していないはずだった。
この百貨店は、もう10年以上前に閉店したと聞いている。
古雫屋(こしずくや)駅に降り立った瞬間から、湿気の混ざった古臭い空気に全身が包まれた。
ホームは狭く、片側の壁に大きな百貨店のロゴマークが残されている。
“旧・古雫屋本店”——まるで建物そのものが駅と融合したような構造だった。
エレベーターの前に立つのは、三好遥(みよし・はるか)、28歳。
濃紺のスーツに白い開襟シャツ、片手にはキャリーバッグ。
長い黒髪を後ろでまとめ、丸ぶち眼鏡をかけている。
仕事帰りのようだが、どこか疲れた顔つきをしていた。
5階で止まったエレベーターに、遥は迷いなく乗り込む。
ボタンの灯りはすでに消えていて、階数表示も古びたブラウン管式。
中には、微かに香水のようなにおいが残っていた。
ドアが開くと、そこには——
“営業中の”百貨店のワンフロアが広がっていた。
照明はつき、エスカレーターも動いている。
商品の陳列もきれいにされているが、客の姿は一人もいない。
ただ、どこかで「いらっしゃいませ」と機械的な声だけが響いていた。
「……懐かしい」
遥は、床に足を踏み入れながら呟いた。
自分でも気づかぬうちに、歩くペースが速くなっている。
エプロン姿のマネキンを見て、一瞬手を伸ばしかけた。
「……これ、私の制服じゃん」
それは、彼女が高校時代にバイトしていた食器売場の制服だった。
ポケットの端に縫い目がほつれていて、それを隠すために入れた青い刺繍の花まで残っている。
「どうして、これが……?」
誰もいないはずのフロアで、エスカレーターの音が止まる。
そして遠くから、パンプスの足音が聞こえてくる。
カツ、カツ、カツ。
「――三好さん、戻ったんですね」
振り向くと、そこには20代半ばくらいの女性が立っていた。
短いボブヘアに、制服のままのエプロン。
名札には「高坂」と書かれている。
遥は覚えていた。
自分が辞めた直後、異動で配属された新人の名前だ。
「今、5階のお客様が少なくて。
よければレジをお願いしても?」
「え、あの、ちょっと……」
「大丈夫ですよ、やり方、身体が覚えてますよね?」
次の瞬間、気づけば遥は制服を着てレジに立っていた。
手にはレシート、横には紙袋。
カウンターの向こうには、顔の見えない客たちの影が並んでいた。
ひとり、ふたり、またひとり。
レジは止まらない。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
——気づくと、遥は南新宿駅に戻っていた。
足元にはキャリーバッグ。
手には、小さな紙袋だけが残されていた。
中には、あのときの制服の布の切れ端と、
レシートの切れ端が入っていた。
そこにはこう印字されていた。
【販売記録】再会:1点
ありがとうございました。またお越しくださいませ。