昔参列した友人の結婚式で、牧師様がこんな事を言っていた気がする。
『死が二人を別つまで、貴女は夫を愛すると誓いますか?』って。
司(つかさ)さんを酷く困らせてしまった私からのプロポーズの日、帰りのエレベーターの中でそんなフレーズをふと思い出していた。私はそっと心の中で『死が二人を別とうとも、私は貴方を愛すると誓います』なんて考えていた事は、もう随分前の事だ。
一瞬の事で走馬灯何てものは見えなかったけど、薄れる意識の中で私は、司さんの事だけは——
友人である宮川(みやかわ)から突然スマホに電話があったのは、定時を過ぎ、残業があったので同僚の桐生(きりゅう)と一緒に職場に残っている時だった。
——今朝家を出る時は、唯に『今日は定時で帰れるかもしれない』って言ってあったのに、無理だった事が悔やまれる。彼女には悪い事をしてしまったなと少し思ったが、定時に帰ったとしても今日は彼女もバイトでまだ帰っていないから問題は無い。だが、宣言通りに行動出来なかった事は悔しかった。
何とか割り切り、久しぶりに晩御飯でも用意しておいてやろうかなんて考えていた計画が流れてしまった事も諦め、同僚の桐生と、溜め込んでしまっていた書類の整理にこの後も追われ続けるはずだった。だが、宮川からの電話の内容が内容だったので、上司と桐生に無理を言って俺は、大急ぎでその場を飛び出した。
最早作業着と化しているスーツに鞄を抱えた姿で駅まで大急ぎで走る間、電話で聴かされた宮川の言葉が頭をよぎる。
『お前の奥さん、今うちの病院に来てるぞ。バイト中に怪我したとかで…… ちょっとマズイ事になってるんだが、お前今からすぐこっちに来られないか?』
容態を訊いても、『外傷はそう酷くはない』と言うだけで、宮川は詳しく言わなかった。
『確証が持てないんだが、あまりいい状態では無いとだけは言える。彼女の命には別状はないが…… とにかく急いで来てくれ』
核心に触れぬ言い方にかなりイラッとしたが、そう言われては行かない訳にはいかない。俺は駅前でタクシーを拾うと、運転手に行き先を急いで伝えた。
『命には別状はない』
そう聞いてはも、唯が怪我をしたという事実に気持ちが陰る。
(居酒屋でのバイトは、そろそろ止めさせるべきなんだろうか)
元々は短期のヘルプだったはずが、好評なせいで彼女は今でもだらだらとアルバイトを続けている。俺が居ない時間に暇を持て余すよりは、やりたい事をやっていてもらえる方が気持ち的には楽なのだが、怪我をしてしまうような状況は許せるものではない。過保護だと言われてしまうかもしれないが、何かあってからでは遅いのだ。
ぐだぐだとそんな事を考えていると、「お客さん、着きましたよ」と運転手の声がした。請求通りの額を払い、すぐにタクシーを降りる。
正面玄関前で下ろしてくれたので、もう診察時間も終わり、真っ暗になっている入り口の横にあるインターホンを押して病院の関係者を呼び出した。妻が病院に運ばれたから来てくれと言われた旨をインターホン越しに相手に伝えると、すぐに時間外の訪問者用に用意された扉を開けてくれる。
院内はメインの電気が消えていて、最低限の電気しか点けられていない入り口は少し暗い。その中でまだ明るいままのスペースに行くと、警備担当の人達が待機しており、その中の一人がメモを片手にこちらへ駆け寄って来た。
「日向唯(ひむかゆい)さんのご家族のお方でお間違い無いですか?」
「はい」と答えると、病室の番号と行き方が書かれたメモをくれた。それを受け取り、先を急ぐ。
もう歩く人間の居ない院内を、少し小走りになりながら病室へ向かう。外科病棟の方まで移動し、そこからエレベーターに乗り込むと、警備室でもらったメモにある階数ボタンを押して上へ行った。
十階に着いて開いた扉が、まだ全て開け切っていないのに無理に出ると、すぐ右手に見えたナースステーションに向かう。開けたままのドアから中を覗き、中に居た看護師の一人に声を掛けた。
「すみません、こちらに日向唯が入院していると聞いたのですが」
「ええ、いらっしゃいますよ。ご家族の方ですね?宮川先生から窺っております、どうぞ中へ」
そう言い、看護師はすぐ向かいにある病室のドアを指差した。
「ありがとうございます」と言って頭を軽く下げ、唯の居る病室へとすぐ足を向ける。少し近づき、引き戸の窪みに手をかけた時だ——
「あはははは!」と盛大な笑い声が病室の中から聞えてきて、ビックリした。数人の人間が、一緒に笑っている様な声までする。
一番大きな笑い声には聞き覚えがあるぞ…… 絶対に唯だ。
致命傷ではないとはいえ、怪我をした事で心配して大急ぎで仕事まで中断して来たというのに、本人は大声で笑っているとは。
肩に入っていた力が一気に抜けて、俺は少し呆れ、ゆっくり息をついた。だがそれと同時に、無事だった事にすごく安心する。
そして、俺にとっては唯が…… 絶対に失いたくない一番大事な人なんだと、改めて実感した。
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