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数日が経っていた。
季節がわずかに進んだ気さえするほど、重く鈍い時間だった。
教室の窓際、日下部は無言でノートを開いていた。ページの隅に鉛筆が落ちる音がしても、顔は上げない。
いつもなら、何気なく隣に座る気配があるはずだった。けれど、その日は、椅子を引く音がやけに慎重だった。
「……おはよう」
遥の声は、耳に届くより前に弱々しく消えていく。
日下部は、少し遅れて顔を上げた。
その眼差しに、怒りの色はなかった。ただ、どこか遠くを見るような、焦点の合わない空虚さだけがあった。
「……ああ」
それだけ言って、また視線を落とす。
ノートに何を書いているのか、自分でももう分かっていないのだろう。字が途切れ、行が歪む。
遥は机に手を置いたまま、何も言えなかった。
何度も言葉を選び直して、どれも正解ではないと気づく。
(何を言っても、また間違える)
蓮司の声が、頭の奥で反響していた。
“お前は、他人の痛みの輪郭を知らないまま動く。だから、守るつもりで壊すんだ”
守ることが、裏切りになる。
もうそれが怖くて、口を開く勇気が出ない。
「……授業、始まるぞ」
日下部の声は、表情よりもずっと冷静だった。
その穏やかさが、逆に距離を示しているようで、遥の喉が詰まる。
彼の中では、怒りはもう鎮火していたのかもしれない。
けれど、消えた炎の跡に残った灰が、どれほど深いのか――遥には見えなかった。
(“怒ってない”は、“許された”じゃない)
そう気づいていても、何もできない。
黒板のチョークが走る音が、妙に鮮明だった。
他の生徒たちの笑い声が、遠くでかすかに響く。
そのすべての中で、ふたりの間だけが音を失っていた。
休み時間になっても、誰も話しかけてこなかった。
蓮司が窓際で笑っている。
何か言いたげな視線を送ってくるが、遥は見返さなかった。
机の上のペンを握りしめる。
“話せばまた、壊す”――その恐怖が、指先にまで染み込んでいる。
「……俺、もう大丈夫だから」
日下部の言葉は、まるで独り言のように静かだった。
その“もう”の中に、遥の居場所は含まれていない。
彼の“平気”は、誰とも関わらないことでしか成り立たない安定だった。
遥は唇を動かそうとした。
「ごめん」でも、「俺が悪かった」でもない、別の何かを探して。
けれど、声は出なかった。
窓の外では、雲が流れていく。
その影がふたりの机を静かに横切った。
沈黙だけが、まるで仕組まれた罰のように、長く、長く続いた。
そして、チャイムが鳴る。
その音で初めて、日下部は立ち上がった。
軽く頷くだけで、振り返らない。
遥の目の前には、閉じた背中だけが残った。
(また、間違えた)
心の奥で呟いた。
もう何度も繰り返したその言葉が、今はもう痛みではなく、静かな諦めに近かった。
――謝ることも、守ることも、全部裏切りになるのなら。
俺は、どうすればいい?
遥は俯いたまま、チョークの粉の舞う光の中で、ひとり立ち尽くしていた。