テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#塩レモン
comi
5,536
#恋愛
ばたっちゅ
3,202
虚喰
92
『マウンドの墓標』 第1章:栄光の架け橋 1. 153キロの咆哮 夏の甲子園、準決勝。 じりじりと肌を焼く8月の太陽が、阪神甲子園球場の黒土を熱していた。超満員、4万7千人の観客が発する熱気と、地鳴りのようなブラスバンドの応援が、スタジアムの空気をビリビリと震わせている。 「バッター、4番、キャプテン、織田くん」 ウグイス嬢のアナウンスが響く中、マウンドに立つ如月駆(きさらぎ かける)は、帽子のつばをきゅっと直した。 背番号「1」。 白地に紺のストライプのユニフォームは、泥と汗で真っ黒に汚れている。しかし、彼の瞳だけは、獲物を狙う肉食獣のようにつきりと輝いていた。 9回裏、2アウト満塁。スコアは3対2。 一打サヨナラの絶体絶命のピンチ。バッターボックスに立つのは、今大会トップの4本塁打を放っている高校界屈指のスラッガーだ。並のピッチャーなら、プレッシャーで押しつぶされ、足が震えてもおかしくない局面。 だが、駆の胸にあったのは、恐怖ではなく、狂おしいほどの「全能感」だった。 (これだよ……これ。このために、俺は生きてるんだ) 小学校1年生で野球を始めてから、駆の頭の中には「プロ野球選手になる」という北極星のような目標が、常に真ん中に居座っていた。 友達がゲームで遊んでいる間も、雨の日に足がもつれそうになりながら泥水を跳ね上げて走った。冬の凍てつく夜、手の皮がめくれて血が滲むまでバットを振り、ボールを投げ込んできた。 そのすべての努力が、血肉となり、今の自分の右腕に宿っている。その絶対的な自信が、彼をマウンドの王者にしていた。 キャッチャーのサインを見る。内角高めのストレート。 駆は深く息を吸い込み、大きく左足を振り上げた。しなやかな鞭のように身体がしなり、軸足の蹴りがマウンドの土を大きく削る。 「おおおおおおおッ!!」 魂を削り出すような咆哮とともに、駆の右腕がトップから一気に振り下ろされた。 指先から放たれた白球が、真夏の陽炎を切り裂く。 シュルルルルッ!と、空気を切り裂く凄まじい風切り音。 バッターの織田が、完全にタイミングを狂わされたように強引にバットを始動させる。しかし、球は彼の予想を遥かに超える軌道で、手元でさらに伸びた。 ドガァァンッ!! ミットが爆音を立てて鳴る。バットは、ボールが通り過ぎた空を虚しく切り裂いていた。 「ストライィィクッ!! バッターアウト!! 試合終了ーーーッ!!」 主審の派手なジェスチャーと同時に、スタジアムが割れんばかりの歓声に包まれた。地鳴りのような拍手がマウンドに降り注ぐ。 バックスクリーンに表示された球速は、自己最速を更新する**「153km/h」**。 「駆! やったぞ!! 決勝進出だ!!」 キャッチャーがマウンドへ猛ダッシュして飛びついてくる。内野手も外野手も、みんな笑顔で駆の元へ集まり、彼の背中を叩いた。 スタンドを見上げれば、メガホンを振って涙を流す母親と、腕を組んで満足そうに頷く父親の姿が見えた。 (見たかよ。これが俺の力だ。俺が、この世代の主役だ) 灼熱の太陽の下、大歓声を全身に浴びながら、駆は天に向かって拳を突き上げた。自分が世界の中心にいるような、脳がとろけるほどの快感。これが、駆にとっての「日常」であり、歩むべき「栄光のレール」の始まりだった。 2. 運命の1位指名 甲子園での大活躍――惜しくも準優勝に終わったものの、駆が大会を通じて奪った三振の数は異次元だった――を経て、日本中のプロ野球スカウトが如月駆の名をスカウティングノートの一番上に書き込んだ。 10月下旬。 駆が通う高校の会議室には、無数のテレビカメラと、フラッシュを用意した報道陣がひしめき合っていた。 正面に座る駆は、きっちりと制服を着こなし、少し緊張した面持ちでプロ野球ドラフト会議の中継画面を見つめている。だが、その胸の内は、緊張よりも「早く俺の名前を呼べ」という傲慢なほどの期待で満ちていた。 テレビから、厳かな音声が流れる。 『第一巡選択希望選手――東京ベアーズ。如月 駆。投手。』 その瞬間、静寂に包まれていた会議室が、一斉に光の海へと変わった。 バシャバシャバシャバシャ!と、鼓膜を突き刺すような強烈なフラッシュの音。 「如月くん、ベアーズが単独1位指名です! 今の気持ちを!」 「ベアーズの印象はどうですか!?」 マイクを向けられた駆は、事前に練習していた通りの完璧な、しかし18歳らしい爽やかな笑みを浮かべて答えた。 「幼い頃からの夢だったプロ野球選手というスタートラインに立てて、本当に嬉しいです。ベアーズは伝統のある素晴らしい球団ですので、1年目からチームの勝ち頭になれるよう、開幕一軍を目指して死ぬ気でアプローチしていきたいです」 会見が終わると、今度は校庭でチームメイトたちによる胴上げが始まった。 「ワッショイ! ワッショイ!」の声とともに、駆の身体が何度も秋の青空へと放り投げられる。 宙に浮く身体。見下ろす仲間たちの羨望と祝福が入り混じった笑顔。 誰もが彼を「未来のスター」「億を稼ぐ男」として見ていた。 その日の夜、如月家の食卓は、まるでお祭りのようだった。 普段は無口な父親が、珍しく高級な日本酒を自ら開け、顔を真っ赤にして駆の肩を抱いた。 「駆、よくやった。お前は俺たちの誇りだ。これで我が家の将来も安泰だな」 母親も、涙を拭いながら駆の大好物の唐揚げを山盛りにした皿を差し出す。 「本当に怪我だけは気をつけてね。でも、駆なら絶対に大丈夫。だって、昔から誰よりも練習してきたんだもの」 契約金1億円、年俸1500万円(推定)。 まだ18歳の少年が手にするには、あまりにも巨額の富と、それ以上の名声。 スマートフォンのメッセージアプリを開けば、中学時代の同級生や、大して仲良くもなかった知り合いから「おめでとう!」「今度サインちょうだい!」「今度飲みに行こう(プロになったら奢ってね)」という通知が、スクロールしきれないほど届いていた。 「プロの世界は厳しいって、みんな言うけどさ」 自室のベッドに寝転びながら、駆は天井を見つめて不敵に笑った。 「俺には関係ない話だな。俺は、勝つために生まれてきたんだから」 机の上に置かれた、ベアーズのロゴが入った新しい帽子。 それを掴んで頭に被り、鏡の前でシャドーピッチングの真似事をする。 18歳の駆の目には、10万人の観客が埋め尽くすプロのスタジアムで、三振を奪って吠える自分の姿がありありと見えていた。 そこへ続く道は、どこまでも明るく、ハッピーで、黄金色の光に満ちあふれているように思えた。
第2章:一瞬の夢、満天の星 1. プロの洗礼と、それを凌駕する天才 2月、宮崎での春季キャンプ。 東京ベアーズのユニフォームに袖を通した駆は、周囲の視線を一身に浴びていた。 ドラフト1位ルーキー。マスメディアは連日、駆の一挙手一投足を追いかけ、スポーツ紙の1面には「如月、ブルペンで驚異の仕上がり!」「首脳陣も絶賛の150キロ」という文字が躍った。 しかし、ブルペンに入った駆が最初に感じたのは、高揚感ではなく、肌がヒリつくような「壁」だった。 隣のプレートで投げているのは、チームのエースであり、数々のタイトルを獲得してきた絶対的な守護神。彼が放つボールは、捕手のミットに収まる瞬間の「爆音」が違った。自分のボールが「シュルル」なら、先輩のボールは「ゴォォン」と空気を爆発させている。 さらに、バッティングゲージに立てば、プロのバッターたちの威圧感は凄まじかった。高校生なら空振りしていたはずの148キロのインコースを、1軍の主力打者は事もなげにレフトスタンドへ放り込んでいく。 「これが、プロか……」 一瞬、背筋に冷たいものが走った。だが、駆の心にある傲慢なまでの自尊心が、すぐにそれを塗りつぶす。 (面白い。これをねじ伏せてこそ、俺がプロに入った意味がある) 駆はそこから、周囲が呆れるほどの練習量を自分に課した。 全体練習が終わった後も、夜遅くまで室内練習場で熱心にシャドーピッチングを繰り返し、ウエイトルームで筋肉をいじめた。14歳の頃から続けている毎朝のランニングも、プロのハードなメニューに耐えるために距離を伸ばした。 その努力と天才的なセンスは、すぐに結果として現れる。 オープン戦で好投を続けた駆は、首脳陣の期待通り、高卒ルーキーとしては異例の**「開幕一軍」**の切符を掴み取った。 そして5月。本拠地、東京ドーム。 満員の観客が見守る中、駆はついに「プロ初登板・初先発」のマウンドに立っていた。 心臓が、肋骨を突き破らんばかりに激しく鼓動している。 対戦相手は、リーグ屈指の強力打線を誇るライバル球団。 1回の表、先頭バッターを打席に迎えた駆は、キャッチャーのサインに深く頷き、甲子園の時と同じように、大きく左足を振り上げた。 (俺の人生は、ここから本番だ!) 放たれた白球は、アウトコース低め、極限のコースへと突き刺さる。 ズバァァンッ!! 「ストライィィクッ!!」 球速は152キロ。バッターは一歩も動けなかった。 その瞬間、東京ドームを埋め尽くすベアーズファンから、地鳴り collective な大歓声が沸き起こった。その歓声が、駆の緊張を最高の興奮へと変えた。 終わってみれば、6回を投げて被安打3、奪三振8、無失点という、デビュー戦としては完璧すぎる内容。 リリーフ陣がそのリードを守り切り、審判の「ゲームセット」の声が響いた瞬間、駆のプロ初勝利が決まった。 「本日のヒーローは、プロ初登板で見事初勝利を挙げました、ドラフト1位ルーキー、如月駆選手です!」 お立ち台に上がった駆は、数千発のフラッシュライトと、スタンドを埋め尽くすオレンジ色のタオルの海を見下ろしていた。 マイクを向けられ、少しはにかみながら「ファンの皆さんの声援のおかげです」と答えると、ドームが割れんばかりの拍手で揺れた。 その夜のスポーツニュースは、どこもかしこも駆の特集一色だった。 SNSのトレンドには彼の名前が最上位に居座り、フォロワー数は一晩で数万人増えた。 まだ19歳。実力、若さ、ルックス、そのすべてを兼ね備えた駆は、一躍、日本プロ野球界の「新たな申し子」として祭り上げられた。 2. 星々の輝きと、右腕の違和感 プロの世界は、勝てば勝つほどすべてが肯定される。 1年目のシーズンが進むにつれ、駆は完全にチームのローテーションの一角として定着していった。 前半戦だけで7勝を挙げ、オールスターゲームにもファン投票で選出。球場に行けば、自分の背番号「11」のユニフォームを着たファンが溢れ、グッズは飛ぶように売れた。 収入も一変した。 毎月の給与口座には、これまでの人生で見たこともないような桁の数字が振り込まれる。 まだ免許を持っていないため高級車こそ買わなかったが、都心の最高級マンションを借り、身につける時計や服はすべて一流ブランドのものに変わった。 地元の友人からは「神様」のように崇められ、高級レストランで食事を奢るたびに、周囲からの羨望の眼差しが駆のプライドを極限まで満たした。 「如月、お前は本当に大したもんだよ。ベアーズの未来は20年安泰だな」 球団の幹部や、著名なOBたちからも、会うたびに肩を叩かれ、絶賛された。 すべてが順調だった。世界は自分のために回っていると、駆は本気で信じていた。 ――あの「異変」が始まるまでは。 7月の終わり、夏のうだるような暑さの中での試合だった。 その日は、立ち上がりからどうもボールが指にかからない感覚があった。いつもなら150キロを軽く超えるストレートが、145キロあたりで燻っている。 5回を投げ終え、ベンチに戻って汗を拭いたとき、右肘の内側に**「チリッ」**とした、奇妙な熱さを感じた。 (……ん?) 腕を伸ばしたり曲げたりしてみる。激しい痛みはない。ただ、関節の奥に、薄い紙が一枚挟まっているような、わずかな違和感。 トレーナーがすかさず駆け寄ってくる。 「如月、どっか痛むか?」 駆は一瞬、正直に言おうか迷った。だが、今ここで「肘に違和感がある」なんて言えば、すぐに登板を飛ばされ、病院へ送られるだろう。今、自分は新人王のタイトル争いの真っ最中なのだ。ここで戦線を離脱することなど、プライドが許さなかった。 「いえ、大丈夫です。ちょっと蒸し暑くて、筋肉が張ってるだけだと思います」 駆は無理に笑顔を作り、そう答えた。 「そうか。無理はするなよ。お前は球団の宝なんだからな」 トレーナーの言葉に、駆は小さく頷いた。 だが、その裏で、違和感は確実に「痛み」へと姿を変え始めていた。 次の登板でも、その次の登板でも、マウンドに上がる前に痛み止めを飲むようになった。 球速は140キロ台後半まで落ち、キレを失ったストレートがバッターに捉えられる回数が増えた。失点が増え、敗戦投手になる日も出てきた。 それでも、駆は投げるのをやめなかった。 ネットの掲示板やSNSでは、少し成績が落ちただけで「如月、もう対策されたな」「高卒なんてこんなもん」という心無い声が囁かれ始めていた。それが、駆のプライドを激しく逆撫でした。 (ふざけんな。俺が、こんなところで終わるわけがない。ちょっと肘が重いだけだ。練習すれば、もっと腕を振れば、元に戻るはずだ) 駆は焦りに突き動かされるように、さらに練習量を増やした。痛む右腕を庇うようにして、不自然なフォームでボールを投げ込み続けた。 それは、自らの肉体を崩壊へと導く、最悪の悪循環であることに、その時の彼は気づいていなかった。 9月、シーズン最終盤。チームのクライマックスシリーズ進出がかかった大一番。 駆は、限界を迎えた右腕に、通常の発汗を抑えるほどの強い痛み止めを注射して、マウンドへ向かった。 ドームの歓声は相変わらず大きかったが、駆の目には、それがどこか遠く、歪んで見えた。 (あと1試合……この試合さえ抑えれば、オフに休める。だから、動いてくれ、俺の腕……!) プレイボールの合図がかかる。 駆はマウンドに立ち、渾身の力を込めて、第1球を投げ込んだ。 その瞬間。 パキィィンッ。 頭の中にまで響くような、不気味で、硬い「音」が、彼の右肘の奥で鳴り響いた。 手から放たれたボールは、キャッチャーの手前で大きくワンバウンドし、バックネットへと虚しく転がっていく。 「あ……」 駆は右腕を押さえたまま、その場に崩れ落ちた。 指先の感覚が、急速に消えていく。まるで、右腕だけが自分の身体から切り離されてしまったかのような、恐ろしい感覚。 ドームの歓声が、一瞬で悲鳴と静寂に変わる。 マウンドに駆け寄ってくる監督、コーチ、トレーナーたちの顔が、恐怖に歪んでいた。 満天の星のように輝いていた駆のプロ1年目は、あまりにも突然に、そして残酷に、暗転の幕を下ろした。
第3章:軋む肉体、狂う歯車 1. 宣告 白く、無機質な病院の診察室。 かすかに漂う消毒液の臭いと、エアコンの低い機械音だけが響く部屋で、駆は一枚のモノクロの画像を見つめていた。 そこには、かつて153キロの豪速球を生み出していた彼の右肘の、無惨に断裂した靭帯が写し出されていた。 「トミー・ジョン手術(靭帯断裂の再建手術)を行う必要があります。如月くん、君の肘の靭帯は完全にボロボロだ。正直、よくここまで投げていたと思うよ」 名医として知られるスポーツドクターは、淡々と、しかし残酷な現実を告げた。 「手術をすれば、また投げられるようになりますか?」 駆の声は、自分でも驚くほど震えていた。 「復帰までは最低でも1年。リハビリが順調にいけば、だ。ただし……」 医師はメガネの奥の目を少し細めた。 「元のパフォーマンス、つまり150キロを超えるストレートが戻るかどうかは、保証できない。19歳という若さはプラスだが、無理なフォームで投げ続けたせいで、肩や周囲の筋肉にも相当な負担がかかっている」 頭の芯が、冷たくなっていくのを感じた。 1年。それは、プロ野球選手にとって、気の遠くなるような長さの空白だった。 数日後、手術は行われた。 麻酔から覚めた駆の右腕は、重々しいギプスで固定され、自分の意志では1ミリも動かすことができなかった。 かつて日本中を熱狂させた、あの黄金の右腕が、今はただの「動かない肉の塊」のようになってベッドに横たわっている。その現実を突きつけられるたびに、駆は激しい吐き気に襲われた。 スポーツ紙の片隅に「ベアーズ・如月、肘の手術で今季絶望。全治1年」という小さな記事が載った。 あんなに毎日押しかけていた報道陣は、潮が引くようにいなくなった。SNSの通知もピタリと止まり、たまに届くのは「もう終わりか」「ガラスの肘だな」という、匿名のアカウントからの嘲笑だけだった。 2. 偽りの復活、消えた輝き 1年におよぶ、地獄のようなリハビリ生活が始まった。 指先を動かすだけの地味な運動から始め、少しずつ関節の可動域を広げていく。 周囲の同期や後輩たちが1軍の試合で活躍し、ヒーローインタビューを受けている姿を、駆はリハビリ施設のテレビで、ただ指をくわえて見ているしかなかった。 (俺はこんなところで、何をしてるんだ……) 焦りだけが駆の心を焼き尽くしていく。 球団からの無言のプレッシャーも感じていた。ドラフト1位、契約金1億円。活躍しなければ、ただの「不良債権」だ。 そして翌年の夏、駆はついに2軍のマウンドで実戦復帰を果たした。 スタンドには、少数の熱心なファンと、球団関係者が集まっていた。駆はマウンドに上がり、1年ぶりに本気で右腕を振り抜いた。 (いけっ……!) ビシッ。 キャッチャーのミットにボールが収まる。だが、甲子園のときのような、あの「ドガァン!」という爆音は響かなかった。 バックスクリーンに表示された数字を見て、駆は目を見開いた。 「138km/h」 「嘘だろ……?」 もう一度、力を込めて投げる。しかし、139キロ。140キロの壁すら、今の駆にはエベレストのように高くそびえ立っていた。 手術前のような、ボールが手元で伸びる感覚が完全に消えていた。 バッターをねじ伏せることのできないストレートは、2軍のバッターにとっても絶好の球でしかなかった。カキィン、カキィンと快音を響かせられ、打球が外野の頭を越えていく。 「如月、腕が触れてないぞ! もっと前で離せ!」 2軍監督の怒号が響くが、駆にはどうすることもできなかった。 頭では分かっているのに、身体が、右肘が、「またあの激痛が襲ってくるのではないか」という恐怖を記憶していて、無意識にセーブをかけてしまうのだ。 それからの駆は、完全に迷走した。 球速が出ないならと、変化球に頼ろうとしたが、急造の変化球などプロには通用しない。 かつて「勝つために生まれてきた」と豪語していた天才の面影は、どこにもなかった。マウンドに立つ駆の顔は、いつ打たれるか分からないという恐怖で、いつも青白く強張っていた。 プロ3年目。駆は1度も1軍に上がることなく、2軍での防御率は6点台後半にまで落ち込んでいた。 かつて彼を「我が家の誇り」と呼んだ父親からの連絡は途絶え、あんなに優しかった球団幹部たちも、今では彼と目を合わせようともしなかった。 3. 通告 10月。シーズンがすべて終了した秋の朝、駆のスマートフォンが震えた。 画面に表示されたのは、球団編成部の連絡先だった。 その瞬間、駆の心臓が冷たく跳ね上がった。プロ野球選手にとって、この時期の球団からの電話が何を意味するか、知らない者はいない。 球団事務所の応接室。 目の前に座る編成部長の顔には、かつて駆をスカウトしたときの満面の笑みは一切なかった。そこにあるのは、冷徹な「ビジネス」の目だった。 「如月くん。非常に心苦しいんだが……我が球団としては、来季の契約を結ばないという結論に達した」 テーブルの上に置かれた、一枚の書類。【戦力外通告】。 「まだ、やれます……! 肘の調子は上がってきてるんです! 来年は絶対に150キロを出せますから!」 駆は立ち上がり、必死に机に両手を突いて訴えた。プライドも、何もかも捨てて縋り付いた。 しかし、編成部長は首を横に振るだけだった。 「数字がすべてなんだ、如月くん。君のこの2年の成績では、これ以上枠を割くことはできない。……育成契約としての再契約も、球団としては考えていない」 「……」 「これまでの貢献には感謝している。まだ21歳だ。トライアウトを受けるなら、応援はするよ」 応援、という言葉が、激しい嫌悪感となって駆の耳を突き刺した。 部屋を出るとき、自分の足がどこを歩いているのか分からなかった。 球団事務所を出ると、秋の冷たい風が駆の身体を吹き抜けた。 21歳。世間では大学生の年齢だ。しかし、14歳から野球だけを信じ、野球のためだけに生きてきた駆には、野球以外に何も残されていなかった。 手元に残ったのは、ボロボロになった右腕と、かつて手にした大金の残骸、そして「元ドラフト1位の粗大ゴミ」という不名誉なレッテルだけ。 栄光のレールは完全に途切れ、駆の人生は、ここから逃げ場のない「本当の地獄」へと転がり落ちていく。
第4章:深淵の底 1. 終わらない夜、泥の身体 戦力外通告を受けてから、駆は都心のマンションを引き払い、実家の子供部屋へと戻っていた。 かつては「プロ野球選手・如月駆」の誕生を祝い、近所中に自慢していた父親は、今では駆とまともに目を合わせようともしない。リビングに漂う重苦しい沈黙に耐えかねて、駆はいつしか、自分の部屋から一歩も出なくなっていった。 部屋のカーテンは常に閉め切られ、遮光カーテンの隙間から一筋の光が床に落ちるだけ。 朝か夜かも分からない薄暗闇の中で、駆はベッドの上に横たわっていた。 「……眠れない」 夜、布団に入っても、頭が冴え渡って一睡もできない。 目を閉じると、脳裏にフラッシュバックするのは、あの超満員の東京ドームの大歓声だ。153キロのストレート、三振を奪った瞬間の全能感。それが生々しく蘇る。 しかし、ハッと目を開ければ、そこにあるのは静まり返った四畳半の天井だけ。その、あまりにも残酷なギャップに、胸が激しく締め付けられ、息ができなくなる。 気づけば朝の4時、5時。鳥の鳴き声が聞こえ始める頃に、ようやく気絶するように短い眠りに落ちる。だが、夢の中でも駆はマウンドに立っており、投げた瞬間に肘が弾け飛ぶ悪夢を見て、冷や汗をかいて飛び起きるのだ。 「身体が……動かない」 昼過ぎに目が覚めても、起き上がることができない。 身体が重い。まるで、全身の細胞が鉛に変わってしまったかのように、指一本動かすのにも凄まじいエネルギーが必要だった。 かつては毎朝1キロのランニングを欠かさず、ウエイトトレーニングで強靭に鍛え上げていたアスリートの肉体は、今や見る影もなく痩せ細り、筋肉は完全に落ちていた。 「駆、ご飯置いておくわね……」 ドアの向こうから、母親の消え入りそうな声がする。 しばらくしてドアを開けると、盆の上に置かれた食事がポツンと残されている。母親が心配して作ってくれた、かつての大好物の唐揚げやハンバーグ。 だが、箸を握る力すら湧かない。無理やり口に押し込んでも、全く味がしなかった。 砂を噛んでいるような、あるいは粘土を呑み込んでいるような不快感。 咀嚼する(噛む)ことすら億劫になり、二口、三口で箸を置き、そのままトレイを部屋の隅へ追いやった。部屋には、手付かずのまま腐りかけたコンビニの弁当や食器が積み重なり、異臭を放ち始めていた。 2. 他人の輝きという刃 野球以外に何もしてこなかった駆にとって、スマートフォンの画面だけが唯一の世界との繋がりだった。しかし、それは彼をさらに深い泥沼へと引きずり込む「自傷行為」でしかなかった。 ニュースアプリを開けば、嫌でも「プロ野球」の文字が目に飛び込んでくる。 『ベアーズの若きエース、契約更改で大台突破!』 『同期の〇〇、メジャー挑戦を表明!』 かつて同じグラウンドで戦い、自分の方が遥かに上だと見下していたはずの同期たちが、今や日本を代表するスターとして、まばゆいばかりのスポットライトを浴びている。 テレビの画面の中で、彼らは満面の笑みでインタビューに答え、何万人ものファンから名前を叫ばれていた。 「ウッ……」 それを見た瞬間、駆は激しい吐き気に襲われ、トイレに駆け込んで胃液をぶちまけた。 胸の奥から、ドス黒い嫉妬と怨嗟が湧き上がってくる。 (なんであいつらなんだよ。なんで俺じゃないんだ。俺の方が努力した、俺の方が才能があったはずだろ……!) しかし、次の瞬間には、そんな醜い嫉妬に狂う自分自身への、圧倒的な自己嫌悪が襲ってくる。 (違う。俺はもう、ただのニートだ。プロ野球をクビになった、肘の壊れた粗大ゴミだ。あいつらとは、住む世界が違うんだ……) SNSの検索欄に「如月駆」と打ち込んでみる。 そこには、かつてのファンだった者たちの冷酷な言葉が並んでいた。 『如月って今何してんの? 完全に行方不明じゃん』 『ドラ1で契約金1億ドトブに捨てたようなもんだなベアーズ』 『一瞬だけ輝いて消えた一発屋。ガラスの天才(笑)』 文字の刃が、駆の心をズタズタに切り裂いていく。 スマートフォンを床に投げつけ、画面がバキバキに割れた。それでも、頭の中の「お前はもういらない人間だ」という幻聴は止まらなかった。 鏡を見るのが怖かった。 たまに洗面所で映る自分の顔は、目の下に真っ黒なクマが浮き出、頬はこけ、髪はボサボサに伸び放題。かつてマウンドで弾けるような笑顔を見せ、ヒーローインタビューで輝いていた少年は、そこにはいなかった。 そこにいたのは、生気を完全に失った、幽霊のような抜け殻だった。 3. 深淵からの囁き 何のために生きているのか、分からなくなった。 これまでの人生のすべてを野球に捧げてきた。野球があったから、親は褒めてくれた。野球があったから、友達は集まってきた。野球があったから、自分には価値があると思えた。 その野球を失った自分には、何も残されていない。 学歴もない、職歴もない、人脈もない。ただ右肘が曲がらないだけの、21歳の役立たず。 「俺から野球を取ったら、何が残るんだよ……」 誰に宛てるでもない言葉が、暗い部屋に虚しく響く。 夜、静寂の中で、右肘の古傷がうずくように痛む。その痛みが、駆に「お前はもう終わったんだ」と宣告し続けているようだった。 ベッドの中で丸まりながら、駆は自分の存在そのものが、世界から消えてしまえばいいのに、と思った。 自分が生きていても、誰も喜ばない。親に迷惑をかけるだけだ。世間からは笑い者にされるだけだ。 (消えたい。楽になりたい。何も考えたくない……) 深淵の底で、暗闇が優しく駆の身体を包み込んでいく。 もはや涙すら出なかった。感情は完全に枯れ果て、心は完全な不感症に陥っていた。 ただ一つ、確かなことは、彼の中の「生きる意志」の灯火が、今にも消えそうに揺らいでいるということだけだった。
第5章:マウンドの墓標 1. 最後の外出 11月の終わり。東京に木枯らしが吹き荒れ、街路樹の葉を容赦なく毟り取っていく、冷え込みの激しい夜のことだった。 駆は数ヶ月ぶりに、自分の意志でベッドから起き上がった。 身体は相変わらず泥のように重かったが、その夜の彼の頭の中は、奇妙なほどに澄み渡っていた。まるで、激しい嵐が去った後の、恐ろしいほどの静寂。 もう、何日も悩まされてきた夜の不眠も、他人の活躍に対する嫉妬も、自分への激しい自己嫌悪も消えていた。感情が完全に消滅し、ただ「一つの目的地」だけが、彼の頭の中にぽつんと浮かんでいた。 「出かけてくる」 リビングを通り過ぎるとき、小さくそう呟いた。 ソファでテレビを見ていた父親は、一瞬驚いたように駆を見たが、すぐに気まずそうに目を逸らし、「ああ、気をつけてな」とだけ言った。それが、実の父親と交わした最後の言葉になった。 外の空気は、痛いほどに冷たかった。 薄手のパーカー一枚しか羽織っていなかったが、寒さすら感じない。 駆はポケットにスマートフォンを突っ込み、割れた画面を見つめた。最後に、かつて高校時代に自分を信じて支えてくれた「彼」へ、一言だけメッセージを送るために。 『ありがとな。最高の野球人生だったよ』 送信ボタンを押し、そのままスマートフォンの電源を切った。そして、近くのゴミ箱へ躊躇なく投げ捨てた。 世界との繋がりをすべて断ち切り、駆はゆっくりと歩みを進めた。向かう先は、彼がその人生のすべてを捧げ、そしてすべてを失ったあの場所――。 2. 静寂の聖地 深夜2時。 駆が辿り着いたのは、かつて彼が「プロ初登板・初勝利」を挙げ、日本中の大歓声を浴びた本拠地、東京ドームの周辺だった。 昼間の喧騒が嘘のように、深夜のスタジアムは不気味なほどに静まり返っていた。巨大な白い屋根が、月光に照らされて巨大な墓標のようにそびえ立っている。 当然、ゲートはすべて固く閉ざされ、中に入ることはできない。 駆は外周のフェンスに背中を預け、冷たいコンクリートの床にへたり込んだ。 壁の向こうからは、何も聞こえない。 だが、駆の耳には、はっきりと聴こえていた。 (如月! 如月! 如月!) 地鳴りのような、何万人ものファンのコール。 ブラスバンドの演奏。地を震わせるメガホンの音。 目を閉じれば、今でも自分がベアーズの背番号「11」を背負い、マウンドの真ん中に立っている姿が、鮮明なカラーで脳裏に浮かび上がる。 指先には、あの最高に指にかかった153キロのストレートの感触が、まだ残っているような気がした。 「あそこが……俺の居場所だったんだ」 ぽつり、と涙が一滴、駆の頬を伝って落ちた。 心が壊れてから、一度も出なかった涙が、止めどなく溢れてくる。 野球を手放した後の世界は、あまりにも寒く、暗く、生きているだけで息が詰まるような苦痛しかなかった。21歳の彼には、これからの何十年という退屈で惨めな人生を、野球のない抜け殻のまま生きていく自信が、どうしても持てなかった。 だったら、一番輝いていた思い出の中で、終わらせればいい。 駆はポケットから、小さな、しかしずっしりと重い市販の錠剤の瓶を取り出した。引きこもっている間、眠れない夜のために、少しずつ、少しずつ買い集めておいたものだ。 彼は蓋を開け、手のひらに溢れんばかりの白い粒をぶちまけた。 右肘が、ピリッと痛む。 「もう、投げなくていいんだよ」 駆は自分の右腕にそう語りかけるように微笑み、手のひらの錠剤を、水もなしに一気に口の中へと押し込んだ。 強烈な苦味が喉を焼いたが、無理やりすべてを 呑み込んだ。 3. マウンドの幻影 コンクリートの床に横たわり、夜空を見上げる。 東京の空は明るすぎて、星は一つも見えなかった。ただ、ドームの白い壁が、月の光を反射してまばゆく輝いている。 次第に、激しい悪寒と、強烈な睡魔が駆の身体を襲い始めた。 視界が急激に狭くなっていく。手足の先から、感覚がじわじわと消えていく。 (ああ……やっと、楽になれる……) 薄れゆく意識の中で、駆は不思議な光景を見ていた。 スタジアムの壁が消え去り、目の前に、あのまばゆいカクテル光線に照らされた、美しいマウンドが広がっている。 超満員の観客が、全員立ち上がって自分に拍手を送っている。 ベンチから監督が笑顔で歩み寄ってきて、駆の肩を叩く。 スタンドでは、母親が笑顔で手を振り、父親が誇らしげに頷いている。 駆は、ゆっくりとマウンドの頂点へと歩いた。 足元には、踏み慣れた硬い黒土の感触。 手には、真っ白で、傷一つない、新しい硬式野球ボール。 「キャッチャー、サインは……」 駆は笑顔のまま、大きく左足を振り上げた。 どこまでも高く、青い空へと向かって。 もう、右肘の痛みはどこにもなかった。かつてのように、いや、かつてよりも遥かにしなやかに、彼の右腕がトップへと引き上げられる。 (俺の、最高の1球を――) 駆の右腕が振り下ろされた瞬間、彼の意識は、永遠の暗闇へと溶けて消えた。 翌朝、冷たい木枯らしが吹き抜ける東京ドームの片隅で、冷たくなった一人の若者の遺体が発見された。 かつて日本中を沸かせた天才投手の最期は、スポーツ紙の隅に「元ベアーズ・如月駆さん死去、21歳」という、寂しい数行の記事で片付けられた。 街は何も変わらずに動き続け、次のシーズンになれば、また新しいスターがマウンドで歓声を浴びる。 如月駆という星が流れた跡には、ただ、冷たい風だけが吹き抜けていた。
コメント
1件
読ませていただきました。冒頭の153キロの咆哮から、戦力外通告、そしてドームの壁際での最期まで――あまりに美しく、そして残酷な一本の直線でした。栄光の絶頂と深淵の底を、地の文の熱量と冷たさで描き分ける筆力に言葉を失いました。特に「右肘の違和感を誤魔化しながら投げ続ける」心理描写が生々しく、何度も「休め」と叫びたくなりました。墓標というタイトルが、最後のワンシーンで静かに炸裂する構成、見事です。