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#読み切り
男子部屋には、ピアノの音だけが あった。
明るくも、楽しくもない、ただの音。
雨宮凪(あまみや なぎ)は
姉の莉乃(りの)と兄の直人(なおと)の隣に座っていた。
鍵盤の端。 いつでも手を離せる場所。
怒られないように。 邪魔にならないように。
それでも、一緒に遊んでいるつもりで。
最初は、音をなぞるだけだった。
莉乃が弾くところを見て、 直人の指の動きを真似して。
少しだけ、胸が温かくなった。
一緒にいる、と思えたから。
だから凪は、 ほんの少しだけ調子に乗った。
鍵盤を強く叩き、変な音を混ぜた。
その瞬間。
凪の指が、莉乃の手に当たった。
空気が止まる。
雨宮 莉乃
莉乃が、低い声で言った。
雨宮 莉乃
直人が吹き出す。
雨宮 直人
雨宮 直人
凪の指が、固まる。
頭が真っ白になる。
雨宮 凪
最後まで言えなかった。 喉が詰まって、声が出ない。
目が熱くなったのを見て、 二人は顔を歪めた。
雨宮 莉乃
雨宮 直人
雨宮 莉乃
涙が落ちる。
雨宮 莉乃
雨宮 直人
直人が、苛立ったように 立ち上がる。
そして、凪の肩を押した。
力は強くなかった。
でも、凪には十分だった。
バランスを崩し、床に倒れる。
視界が低くなる。
上から、二人の影。
莉乃は何も言わず、 また鍵盤に手を置いた。
♪ かえるの歌が――
でも、それは歌じゃない。
雨宮 莉乃
雨宮 莉乃
莉乃が笑いながら歌う。
直人も調子を合わせる。
雨宮 直人
雨宮 直人
二人は凪を見下ろしたまま、 楽しそうに声を重ねる。
笑い声。
歪んだ歌。
ピアノの音。
全部が、凪の上に降ってくる。
凪は、もう声を出せなかった。
泣くのも、止められなかった。
廊下は静かだった。
誰の足音もしない。
長男も。
長女も。
親も。
誰も、来ない。
ピアノの音だけが、 何事も起きていない家みたいに。
ずっと鳴り続けていた。