気が動転していた華子は、
とりあえず落ち着こうと目の前の机をじっと見続ける。
しかし手の震えはまだ止まらない。
震えは手だけではなく、身体全体にまで広がっていた。
早春のこの時期、夜はまだ肌寒い。
華子はコートも着ずにホテルを飛び出したので、
身に着けているのは薄地のワンピースだけだった。
急に襲って来た寒気に、華子は両腕を抱え込むようにする。
それに気づいた陸が、ハンガーにかかっていた自分のジャケットを取って華子に掛けてやる。
その瞬間、華子はホッと息を吐いた。
そこへ、卓也が飲み物を二つ持って来た。入れたての温かいコーヒーだ。
この店は昼間はカフェなので、コーヒーはすぐに準備できる。
「ありがとう」
そう言って陸がトレーを受け取る。
卓也は心配そうな表情のままフロアへ戻って行った。
「温かいコーヒーだ」
華子は何も言わずに、前に差し出されたカップをじっと見つめてから、
震える両手でその温かいカップを包み込んだ。
その瞬間、手のひらにじんわりと温かさが広がりホッとする。
陸は先にコーヒーを一口飲んだ。
それを見て華子も同じようにコーヒーを一口飲む。
喉が渇いていたのだろう。
それから華子はゴクゴクとコーヒーを飲み始めた。
「で、なんで死のうと思ったの?」
そのシンプルな質問に、華子は答えない。
「死にたかった原因は?」
「…….」
まだ頭の中の整理が出来ていない華子は、答えに詰まる。
本来は気の強い華子だ。
いつもだったら質問されれば、10倍にして言い返す自信がある。
しかし、今は全く言葉が出て来ない。
それほど頭の中がパニックになっていた。
「知り合いに、大学病院で精神科医をやっている奴がいるんだが、一度行ってみるか?」
それはハッタリではなく本当の事だった。
陸は、慶尚大学で精神科医をしている高見沢圭という友人がいた。
陸と高見沢が知り合ったのは、この店を訪れた元自衛隊員が鬱で苦しんでいたので、
一緒に病院へ付き添ってやった事がきっかけだった。
高見沢は元々サバゲ―やモデルガン等の趣味を持っていたので、
この店のバータイムの客が同じ趣味の人の集まりだと知ると頻繁に訪れるようになった。
慶尚大学病院は、この店からすぐ近くなので、
高見沢は昼のカフェタイムにランチを食べに来る事もある。
自分が病院に連れて行かれるかもしれないと思った華子は、
びっくりして慌てて言った。
「だ、大丈夫ですから……」
「自殺しようとして大丈夫な訳ないだろう?」
「ほっ、本当に大丈夫だから」
華子は必死に訴える。
「じゃあ、死にたくなった理由は?」
答えないと病院に連れていかれると思った華子は、諦めて答える事にした。
華子が慶尚大学病院に行きたくない理由は、精神科云々という事ではなくて、
慶尚大学病院には重森がいるからだ。
酷い振られ方をしたのに、バッタリ会ったら困る。
それに自殺をしようとして精神科に行ったなんて知られたらもっと最悪だ。
今のみじめな姿を、重森に見られるのだけは絶対に嫌だった。
こんなに落ちぶれてもプライドだけは健在だったので、つい可笑しくなった華子は心の中でフフッと笑う。
しかし急に鋭い視線に気付く。
目の前で気難しい顔をして華子の答えを待っている男がいるのだ。
(答えなくちゃ)
華子はそう思うと口を開いた。
「そうね、理由があるとすれば、自暴自棄ってやつかな……」
「愛人をやめたら自暴自棄? そんなもんやめて正解だろう?」
「あら、なんで私が愛人をやめた事を知っているの?」
そこで華子は気づいた。この男はこの店の従業員なのだ。
だから、先程の野崎とのやり取りを聞いていたのだ。
「フフッ、全部聞かれちゃったのね。そうね、愛人はやめて正解だったわ」
華子はそう言って淋しそうに笑う。
「帰る所はあるのか?」
「えっ?」
陸から意外な質問が来たので、華子は思わず声を出した。
「だから、帰る場所はあるのかって聞いてるんだ」
「そんなのある訳ないじゃない」
華子は力なくそう言った。
「実家は?」
「実家は駄目!」
「地方なのか?」
「ううん、都内よ。でも駄目なの……」
陸は華子の言葉を聞いて、
何か帰れない事情があるのだろうと察した。
一方、華子は今、自分が過去最大級のみじめな状況にいる事に気づいてしまう。
そして、思わず泣きそうになるがなんとかこらえる。
泣いている姿を、他人には見られたくない。
すると、陸が言った。
「他に仕事はしているのか?」
「してないわよ! だから困ってるんじゃない!」
「明日返す50万はどうするんだ?」
「やだ、全部聞いてたのね。多少貯金はあるから50万は返せるわ。でも貯金を使ってしまうと、住む家が借りられなくなるか
ら困っているのよ」
華子は諦めたようにフーッとため息をつく。
そしてもう一口コーヒーを飲んだ。
「だったらここで働けばいい」
「えっ?」
「真面目に働くなら、社宅を提供してやってもいい。ここから歩いてすぐだが、まあまあ小綺麗な物件だ」
「アパートを貸してくれるの? タダで?」
「アパートじゃない。一応オートロックのマンションだ」
「それをタダで?」
華子は驚いていた。
この辺りは人気の街なので地価が高い。
オートロック式の小綺麗なマンションを借りようとすれば、かなりの家賃がかかるはずだ。
それをこの男は無償で提供してくれると言った。
その時、華子の頭の中にこの言葉が浮かんだ。
『捨てる神あれば拾う神あり』
思わず華子はプッと笑いそうになる。
しかし、男はそんな華子の事には気づく様子もなく続けた。
「社宅だから経費になるしな」
その言葉を聞き華子は不審な顔をした。
この男は、この店の従業員ではなさそうだ。
「えっと、あなたはこの店の……?」
「オーナーだ」
「従業員だとばかり思ってたわ! それは失礼しました」
華子はそう言うと、軽く頭を下げた。
「バイトっていうのは、バーで働けっていう事?」
「いや、違う。この店は昼間はカフェとして営業しているんだ。だから日中のカフェで働いてもらう」
「夜のバーの方が時給がいいんじゃないの?」
「いや、そんなには変わらないよ。それに、自殺しかけた奴は夜よりも昼間働いた方がいい。健全な精神は規則正しい生活に宿
るからな!」
男はそう言ってフッと笑った。
男のいちいち偉そうな口調にイラっとした華子は、すぐに言い返した。
「あなたに指図をされる覚えはないわ!」
「いや、俺は指図する権利がある。君の命を救ったんだからな」
男はそう言ってニヤリと笑った。
「とにかく、俺が命懸けで救った命がまた自殺を図ってあっさり死んだら、俺の努力は台無しだ。それだけは勘弁してくれ!
悪いようにはしないから、俺の言う通りにしろ」
自信あり気に言う陸の様子を、華子は無言で見つめる。
華子は挑発的な陸と話をしているうちに、いつもの調子が戻ってきた。
そして、華子は陸の事を改めて観察し始める。
身長が高く、体格の良い陸の容姿を見て、
何かスポーツをやっているのだろうか? そう華子は思った。
とにかくここまでガッチリ鍛え上げられた見事な肉体は、今まで見た事がない。
話し方は常に上から目線だが、
シンプルな語り口からは、聡明さが見え隠れする。
(この男は一体何者?)
華子はそう思いながら次に陸の顔を観察し始める。
コメント
2件
陸さんと話しているうちに ようやく落ち着き、本来の自分を取り戻したかのような華子さん。 これから陸さんの助けをかり 立ち直ることができますように....
パニックで何も話せなかった華子が陸さんと話すうちに自分とプライドを取り戻すのって陸さんの粗治療がなかなか凄いわ〜😁 それでも華子を助けたことでオーナーの陸さんが徹底的にサポートしてくれるって感謝しても足りないよー、華子🌹‼️