テラーノベル
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翌朝、ステラマーレの空気はいつもの朝食の匂いより先に噂で膨らんでいた。配膳室では皿よりひそひそ声が積まれ、階段ではメイドが足を止め、玄関では送迎係まで耳をそばだてている。
原因は、ジナウタスが帳場の前でさらりと口にした一言だった。
「ディアビレは、俺の婚約者候補だ」
朝の帳簿確認をしていたグラツィエラのペン先が止まり、ダービーが持っていた書類を取り落とし、ベジラは手にしていた果物皿ごと固まった。
セルマだけが一拍遅れて笑った。笑ったが、扇の骨がぎしりと鳴った。
「冗談にしては悪趣味ね」
「冗談に聞こえるなら、耳の調子が悪い」
ジナウタスは平然としていた。夜勤明けの顔なのに、妙に目だけが冴えている。
ラウールは館内放送のマイクの前で、その噂をなぜか注意事項に混ぜようとして、盛大に噛んだ。
『本日の、ええと、朝食は七時より、し、しんやくしゃこうほ――違う、婚約者候補……ではなく、食堂をご利用ください!』
放送室の外でゲティが壁に額を押しつけ、笑いをこらえて肩を震わせる。フレアは衣装室から顔を出し、「急に面白くなってきた」と目を輝かせた。
館内の空気だけが走り出しているのに、肝心の本人はどこにもいない。ディアビレは昨夜、ルナ・マグの奥でそのまま眠らされ、まだ事情を何ひとつ聞かされていなかった。
朝日が射し込む帳場で、セルマはゆっくり扇を閉じる。
「では、その娘にも同じことを言わせてみなさいな」
ジナウタスは瞬きひとつせず答えた。
「その前に、あなたの都合で彼女を立たせる気はない」
その言葉で、笑いまじりだった噂は一気に本気のざわめきへ変わる。
ただ一人、話の中心にいるはずのディアビレだけが、まだ知らない場所で眠っていた。
#独占欲
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