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あの時……
車の中で携帯が鳴った時、遼はディスプレイに目を落とし、「竹田からだ」と言った。
竹田先生から、カンファレンスの症例について相談があるのだと――。
でも、竹田先生からの着信時間は、遼が店で竹田先生に電話を掛けた後になっている。
……どうして?
「……竹田先生とのカンファの話は嘘? それとも、本当……?」
心臓が早鐘を打ち続ける。
欠けたパズルのピースを探すように、思考だけが空回りする。
携帯を見つめる目は、瞬きさえ忘れ、乾いた痛みを覚えていた。
「……」
遼が竹田先生に電話を掛けたのは、『着信履歴を作るため』……?
まさか、ワン切りして折り返しの電話を待ったとか……。
疑い始めると、憶測ばかりが次々と頭をよぎる。
「着信の……アリバイ作り……」
膝へ視線を落とす。
落ちた拍子に傾いたまま放置された携帯を、私はじっと見つめた。
「……」
車の中で電話を掛けてきたのは、誰?
どうして嘘をついたの。
どうして着信履歴を消したの。
誰なの……
電話を掛けてきたのは。
何度もメールを送ってきたのは、誰?
……私に隠さなければいけない相手なのね。
妻に着信を隠す必要がある相手なんて、一人しか思い浮かばない。
遅くに帰宅した遼の衣服から、かすかに漂っていた甘い残り香。
「……浮気相手」
放心したままの喉の奥から、掠れた声が絞り出された。
「そうだ……メール……」
病院のロビーでも、遼は誰かとメールをしていた。
携帯をポケットへしまった、その一瞬。
胸に引っ掛かった、あの微かな違和感。
あれはきっと、私を急かすメールを打とうとしていたんじゃない。
……もしかして、メールを見れば何か分かる?
目を見開き、私は再び携帯を握り締めた。
胸のざわめきに突き動かされるように、メールボックスを開こうと指を伸ばす。
その瞬間、画面に表示されたのは――
『端末暗証番号を入力してください』
の文字だった。
……こっちは、ロックが掛かってる。
「暗証番号……」
気づけば、手のひらは汗でじっとりと湿っていた。
一度携帯を置き、服で掌の汗を拭う。
唇を噛み締めたまま、静止した画面を見つめ続けた。
……暗証番号は何?
遼の誕生日?
電話番号?
病院の職員番号?
……違う。
遼のことだ。
そんな簡単に予想できる番号にするはずがない。
何かに取り憑かれたように携帯へ向かい、思い当たる数字を片っ端から打ち込んでいく。
「分からない……」
何も思い浮かばなくなるまで、それほど時間は掛からなかった。
画面には無機質に、
『端末暗証番号が違います』
という文字だけが繰り返し表示される。
私はその文字を見つめたまま、ゆっくりと携帯を膝へ下ろした。
我に返った途端、全身を脱力感と絶望感が包み込む。
「メールロック……当然よね……」
ソファーへ身を預け、力なく薄い笑みを浮かべた。
私の知らない人物から着信履歴が残っていたとしても、いくらでも理由はつけられる。
所詮、名前だけだから。
でも、メールの内容を読まれたら一目瞭然。
メールにはロックを掛けて……
電話みたいに、証拠隠滅はしないのね。
「……どうせなら、電話もロックを掛ければ良かったのに……」
震える声が、虚しさとともにこぼれ落ちる。
あるはずのものが消されてしまった――
その事実こそが、何よりの証拠なのに。
「ロックを掛けてしまえば……証拠なんて残らなかったのにね……遼」
何が、自慢の妻よ。
何が、信頼しているパートナーよ。
何となく気づいてた……
気づいていたけど……
それでも私は、妻としてあなたを信じていたかったのに。
……嘘つき。
膝の上の携帯とライター、煙草を睨みつけ、手の甲で払いのけるようにソファーへ叩き落とした。
茫然と床の一点を見つめていた、その時――
「亜紀~。水くれ。氷を入れた冷たいやつ」
風呂を上がった遼の声に、私ははっと息をのんだ。
慌てて携帯をクッションの下へ滑り込ませる。
赤くなった目を見られないようにうつむき、そのまま立ち上がった。
「うん……待ってて」
短く返事をすると、リビングへ戻った遼を避けるように、私はキッチンへ逃げ込んだ。
コメント
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うわあ……第54話、読んでて胸がぎゅっと締め付けられました。亜紀が携帯を手に取って、着信履歴とメールロックの矛盾から「浮気相手」という言葉に辿り着くまでの流れ、一つひとつの動作と思考が生々しくて。特に「どうせなら電話もロックを掛ければ良かったのに」のセリフ、皮肉と諦めが混ざって泣けます。最後にクッションの下へ携帯を隠して「水くれ」に応じる日常の裏切られ感が、この話を一層重くしていました。伏線の張り方が本当に巧い……次が気になります。