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#執着
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冷凍庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出し、氷を入れたグラスへ水を注ごうとした。
しかし、震える手で握ったペットボトルの口がグラスに当たり、カチカチと小さな音を立てる。
無意識に震える手。
心臓の鼓動が、耳元で鳴り響いているようだった。
カチャーンッ!
「あっ……」
落ち着こうと深呼吸をした、その瞬間――
手のひらから滑りかけたペットボトルがグラスへ当たり、そのまま押し倒してしまった。
大理石のキッチンカウンターへ水が広がる。
グラスから飛び出した氷は、くるくると回転しながらシンクへ滑り落ち、大きな音を響かせた。
「おいっ、何の音だ!」
ダイニングから遼の声が飛ぶ。
こちらへ向かってくる足音に、胸が大きく跳ねた。
「ご、ごめん。何でもない。手が滑っただけ」
慌ててキッチンタオルを広げ、水を拭き取る。
「びっくりしたな。グラスは割れなかったか?」
「うん、大丈夫。驚かせてごめん」
キッチンを覗き込んだ遼へぎこちなく笑い返した、その時だった。
キッチンタオルを動かしていた私の手が、ぴたりと止まる。
遼の手には、煙草と携帯電話が握られていた。
その光景に目を奪われ、言葉を失う。
「……どうした?」
不思議そうに私を見つめる遼。
「……ううん。煙草が……」
「ん? 煙草?」
「……また灰皿が床に置いてあったの。さっき足を引っ掛けそうになって」
咄嗟に思いついた言葉で取り繕う。
逃げるように携帯から視線を逸らし、唇をきつく結んだ。
「ああ、悪い。グラスを倒すより、灰皿をひっくり返した方が後始末が面倒だからな」
遼は私をからかうように軽く笑った。
「……すぐ水を持って行くから。待ってて」
私は冷凍庫を開け、新しい氷を取り出しながら、背中を向けたまま答えた。
グラスを持ってダイニングへ戻ると、遼はぼんやりとテレビを眺めながら煙草をくゆらせていた。
「何見てるの?」
遼の前へグラスを置き、楽しそうな笑い声が流れるテレビへ目を向ける。
「くだらないバラエティー番組」
遼は気のない返事をすると、煙草を灰皿へ押しつけて火を消し、グラスを手に取って一気に飲み干した。
「もう限界。先に寝るわ」
遼は眠たげに目をこすり、リモコンでテレビを消すとゆっくり立ち上がった。
「あ、うん。私も少し部屋を片付けてから寝る」
私も夫に続くように、今腰を下ろしたばかりのソファーから立ち上がる。
「じゃ、おやすみ」
そう言って背を向けた遼は、充電器につないでいた携帯電話を何気ない仕草で手に取り、そのまま寝室へ向かって歩き出した。
「……うん、おやすみなさい」
私は夫の手の中にある携帯電話を見つめたまま、唇を閉ざす。
携帯……
寝室へ持って行くんだ……
また今から、誰かとメールをするの?
私に知られたくない……
ロックを掛けなければならない、誰かと。
顔がかっと熱くなる。
漠然とした不安と苛立ち。
胸の奥で、錯乱にも似た感情が膨れ上がり、じわりと目頭が熱くなった。
私は、このままずっと嘘であしらわれるの?
あなたは、これからも私に嘘を重ねて生きていくの?
この先、何年も……
何十年も……
夫が……
私から離れていく……
遠ざかる背中が、涙で滲んだ。
「……遼……遼っ、待って!」
もう耐えられない。
抑えきれない感情に突き動かされ、私は彼の背中へ駆け寄り、そのまま強く抱きついた。
コメント
1件
さくらさん、第55話読みました。震える手でペットボトルを握る細部が、主人公の不安を肌で感じさせるようで切なかったです。特に「また今から誰かとメールをするの?」という心の声に胸が締め付けられました。そして最後、抑えきれずに「遼っ、待って!」と背中に抱きつくシーン、長年の我慢の限界がひしひしと伝わってきて…。この先どうなるのか、目が離せません。素晴らしい心理描写でした🌷