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デシアが抱えていた箱は、水を吸って少し角がふやけていた。
モルリが慌てて駆け寄る。
「ちょ、貸して。底、抜ける」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない。見れば分かる」
結局、二人で箱を古びた長机へ下ろした。机の脚がぎしりと鳴る。サベリオは離れた場所からその様子を見ていたが、箱の底がたわんだ瞬間だけ、無意識に一歩出ていた。
デシアはその一歩に気づいたらしい。ほんの少し口元を緩めたが、すぐに視線を箱へ戻した。
「資料室の整理で、処分候補に入れられてたの」
蓋を開けると、紙の匂いがふわりと広がった。台本。手書きの進行表。黄ばんだアンケート用紙。折れた鉛筆まで混じっている。
モルリが一枚持ち上げる。
「うわ、懐かし。これ、前にやった時の感想?」
「そう。『雨の音まで台詞みたいだった』とか、『橋の下で笑ったの初めて』とか」
デシアは指先で用紙の端をなぞった。まるで、そこに残った声を確かめるみたいに。
サベリオは箱の中に見覚えのある紙を見つけ、息を止めた。数年前の上演台本。表紙の隅に、自分が鉛筆でつけた小さな印がある。
「それ……まだ取ってあったのか」
「捨てられなかったから」
デシアの返事は短かった。その短さの中に、長い時間が沈んでいる。
モルリは次々に紙を抜き出しては広げ、勝手に読み上げ始めた。
「えー、『終演後、シェルターを出たくなかった』。分かる。私もあの日、ずっと居座って怒られた」
「怒ったの私じゃない」
「でも一番怖い顔してたのデシアだった」
「片づけを手伝わなかったからでしょ」
やりとりは軽いのに、サベリオの胸の奥では別の音が鳴っていた。紙束の間から、もう見ないと決めていた夜が何度も顔を出す。
デシアは箱の底から、一冊だけ丁寧に取り出した。
少し厚めの、紺色の表紙。
しばらく彼女はそれを開かなかった。開いてしまえば、また先へ進まなければならないと知っているように、静かに息を整えていた。
「これだけは」
彼女が言う。
「ここで書いたものだから」
モルリが身を乗り出す。
「何?」
デシアは表紙をこちらへ向けた。
雨雲のせいで薄暗い室内でも、その題だけは不思議とはっきり読めた。
『春の音』
サベリオの喉がひりつく。
昔、最後まで完成しなかった脚本。
橋の下で雨宿りする人たちの、一晩の話。
デシアは本を胸元へ引き寄せたまま、低く言った。
「ここは消したらだめ」
モルリの目が光る。
「じゃあ、やろうよ。もう決まりじゃん」
サベリオは首を横に振った。
「決まってない」
「でも今、顔が決まりかけてた」
「決まってない」
「二回言った。怪しい」
モルリの軽口にも、デシアは笑わなかった。ただ『春の音』を見つめたまま、小さくつぶやく。
「まだ、途中なの」
その声を聞いた時、サベリオは気づいた。
彼女は脚本のことを言っている。けれど、それだけじゃない。
外では雨がいっそう強くなり、入口の撤去通知がびしょ濡れになっていく。