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その夜、サベリオはまっすぐ家へ帰れなかった。
橋のたもとの石段を上り、時計塔の扉を押す。古い蝶番が、低い声みたいな音で軋んだ。中は油と木の匂いがする。狭い螺旋階段を上るたび、昼の雨がまだ靴裏に残っているのが分かった。
最上段の作業台には、コスタチンがいた。
老時計師はランプの明かりの下で、小さな歯車を布で磨いている。顔を上げもしないまま言った。
「遅い」
「来るって言ってない」
「来る顔だった」
サベリオは何も返さず、文字盤の裏側へ歩いた。巨大な機構は止まった獣の骨みたいに静かだ。夜になると青く沈んで見えるあの文字盤も、内側から見るとただの厚いガラスでしかない。
秒針用の細い軸へ指を伸ばす。
ほんの少しだけ力を入れると、かすかな抵抗のあと、針がひと目盛りぶん動いた。
かち。
それだけの音が、妙に深く響いた。
「無理に動かすな」
コスタチンが言う。
「壊れる」
「もう止まってる」
「止まってるのは時計じゃない」
サベリオは顔をしかめた。
「説教なら帰る」
「帰ればいい。だが、その前に聞け」
コスタチンは磨いていた部品を置いた。皺の寄った指が、鐘を吊るす太い梁の方を指す。
「この時計塔、昔は満月の夜だけ鐘の音がよく通った」
「よくある昔話だろ」
「昔話にしては、町の連中が今でもその夜に橋を見上げる」
サベリオは黙った。
確かにそうだった。祭りでもないのに、満月の夜だけ、町の人は時計塔を気にする。鳴らない年でも、誰かが空を見上げる。
「修理すれば鳴るのか」
「鳴らす奴がいればな」
コスタチンは、わざと素っ気なく答えた。
「お前、橋の下へ行ったな」
「……なんで分かる」
「靴が湿ってる。あそこの石段の泥は色が違う」
師匠の観察眼に、サベリオは小さく息を吐いた。
「デシアが来た」
「ほう」
「モルリもいた」
「にぎやかだな」
「芝居をやるって言い出した」
コスタチンは笑わなかった。ただ、ランプの芯を少し上げただけだった。
「それで、お前は逃げてきた」
「逃げてない」
「針を一つ動かして満足する程度には、逃げとる」
サベリオは反論できなかった。
塔の奥から、雨上がりの風が細く吹き込む。どこかで水滴が落ちた。
かつて整備していたこの場所は、目を閉じても手順が分かる。けれど橋の下で人前に立つことだけは、今も体が拒む。
コスタチンは作業台の端から、小さな油差しを投げてよこした。
「持ってけ」
「いらない」
「橋の下の扉、蝶番が泣いとる」
サベリオは受け取ってしまってから、舌打ちした。
コスタチンが鼻で笑う。
「行く気がない奴は、そんな顔せん」
塔を下りる前、サベリオはもう一度だけ文字盤の裏を振り返った。
止まったままの深い時計。
なのに今夜は、じっと耳を澄ませば、どこか遠くで鐘の余韻が残っている気がした。