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#海辺の町
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その夜、離れには主要な面々が集まっていた。提出用の資料を前に、札の文面、古帳面の引用、使い道の案まで、机の上は紙でいっぱいになっている。
遙香が役場へ出す説明の骨子を読み上げる。
「歴史的価値、地域交流、避難補助、聞き書き活動の継続……」
「言葉としてはきれいだけど」
享佑が腕を組んだ。
「結局、何のために残したいのか、一番大事な芯がまだ弱い」
場が少し静まる。
義海が小さく言う。
「おいしいプリン屋が近いから、じゃだめ?」
「だめに決まってるだろ」
享佑が即答し、少しだけ笑いが起きた。
その空気の隙間に、啓介が口を開く。
「母さんのため、って言いかけてた」
皆の視線が集まる。
「でも違う」
啓介は机の上の赤いリボンを見る。
「母さんがここで何してたか、昨日までちゃんと知らなかった。だから、母さんのためだけに守りたいって言うの、たぶん違う」
芽生が黙って聞いている。
「今ここへ来る人のためだと思う」
啓介は、自分でも驚くくらいはっきり言えた。
「泣いてても、何も言えなくても、とりあえず座れる場所がいる人のために、残したい」
枝央理が問い返す。
「それが今も本当に必要だって、証明できる?」
「する」
啓介は迷わなかった。
「できる形にする。聞き書きでも、札でも、使い方でも」
その瞬間、芽生が少しだけ泣きそうな顔で笑った。
遙香は頷き、すぐ仕事の顔に戻る。
「今の一文、使える。いや、使う」
「本人の前で素材扱いするなよ」
蓮都が言う。
「今さらだよ」
美恵が返す。
小さな笑いが机をひと回りしたあと、空気は不思議なくらい前向きだった。
啓介自身の中でも、離れを守りたい理由が初めて一本の線になった。
思い出を守るためだけじゃない。
今、誰かがここで息をつけるようにするためだ。
その言葉が、芽生の胸にも何かを残したようだった。