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#海辺の町
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夜が更けて、皆が帰り支度を始めたころ、芽生の携帯が震えた。画面には、春から研修予定だった設計事務所の名前が出ている。
芽生は反射的に立ち上がり、廊下の端へ出た。
古いガラス戸の向こうに、海の黒い面がうっすら光っている。
「はい、芽生です」
相手の声は明るかった。春明けからの短期研修の件、正式に席を押さえられること、返事を早めにもらえたら助かること。いずれもありがたい話だった。
夢に近い内容だった。
建物を残す仕事に関わりたいと願ってきた自分にとって、断る理由など本来ない。
それなのに、相槌のたびに胸の奥が重くなる。
『ご検討いただけますか』
「……はい。少しだけ、お時間いただけますか」
電話を切ると、芽生はしばらくその場から動けなかった。
離れの柱の傷、潮気を吸った畳、誰かの泣き声を受け止めてきたこの空気。啓介がさっき言った“今ここへ来る人のため”という言葉。
全部が、思っていたより自分の中へ入り込んでいる。
「寒くない?」
背後から啓介の声がした。
芽生は慌てて振り返る。
「だ、大丈夫です」
「電話?」
「うん、ちょっと学校関係」
嘘ではない。でも本当でもない。
啓介はそれ以上訊かなかった。その優しさに、芽生の胸が余計に痛む。
「お茶、まだ残ってたけど飲む?」
「飲みます」
並んで戻る廊下で、芽生は何度も口を開きかけた。
春が終わったら、町を離れるかもしれない。
そう言えばいいだけなのに、言った瞬間に何かがほどけてしまいそうで怖かった。
離れの灯りが二人の足元へ細く伸びる。
芽生は、その灯りの中にいながら、一人だけ別の岐路へ立たされている気がした。