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#大人ロマンス
瑠璃マリコ
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――22時。
楓を追うために駅へ向かった私は、そのまま彼女の家とは逆方向の電車に乗り、緑区にあるシティーホテルにチェックインした。
同じ名古屋市内でも、なるべく自宅から離れた地域のホテルを選んだ。
今夜から、このホテルの一室が私の生活空間。
「はぁ……」
私はセミダブルのベッドの上に洋服のまま倒れ込み、いつも愛用しているものより硬めの枕に顔を伏せた。
ベッドに沈む身体が、鉛のように重く感じられる。
楓の言葉……
夫の言葉……
数時間前の壮絶な光景が、走馬灯のように蘇る。
否定したい現実。
崩された日常。
今まで隠されていた現実が見えただけ……
これが真実……
どんなに否定しても変わらない、現実……。
私は嗅ぎ慣れない真新しい香りに囲まれながら、しばらく瞼を閉じて屍のように横たわっていた。
身動きもせず数分が経った頃、木製のワークデスクに置いた携帯が着信を知らせる。
シンと静まり返った部屋の中で、警報のごとくけたたましく鳴り響く音。
遼っ!?
反射的に夫の顔が浮かび、怯えるようにビクッと身体を硬直させた。
生唾を飲み込み、デスクの上で震える携帯のディスプレイを覗き込む。
「今泉さんっ!」
思わず目に飛び込んできた名を呼んで、携帯を掴み上げた。
「もしもし! 今泉さん、私っ……」
待ちわびていた人からの電話。
彼にすがる思いばかりが先走りして、上手く言葉が出てこない。
『夕方の会議が長引いて、すぐに連絡できなくてごめん。良かった。無事にホテルに着いたんだな』
彼の落ち着いた声が流れ込む。
その柔らかな声は耳を伝い、心の傷を癒しながら身体の奥深くまで広がっていく。
「うん、30分くらい前に。ごめんね……今泉さん忙しいのに、私がこんなことになって……」
実質的な被害は及んでいないにせよ、私に関わっていることが、既に彼を巻き込んでしまっているのと何ら変わりはない。
申し訳ない気持ちでいっぱいになり、弱々しく語尾を濁した。
『……メール読んだよ。よく頑張ったな、亜紀……』
耳に触れる、柔らかい彼の声。
よく頑張ったな――その言葉で、次第に目頭が熱くなる。
泣いちゃいけない……
ここで泣いたらきっと、もっと心配をかけてしまう。
泣いてしまったら、私自身の歯止めが利かなくなってしまう……
「ごめんなさい、本当に……」
……あなたには関係のないことなのに。自分でけじめをつけるなんて、大言を吐いておきながら……
ミイラ取りがミイラに……木菟引きが木菟に……
――そう言えば、直江先生に忠告されたっけ。
「みっともないね、私……」
零れ落ちそうな涙を堪えながら、自嘲的な笑みを浮かべる。
『何がみっともないんだよ。俺に謝る必要なんてない。……それより、今からそっちに行ってもいいか?』
「えっ!? 今から……この部屋に?」
『このまま一人でいるのは辛いだろ? 部屋番号教えて』
「……でも、昨夜も朝まで一緒にいてくれたし……」
そんな我が儘は言えない。……言ってはいけない。
気持ちを抑え込もうと唇をキュッと噛み、携帯を握る指に力が入る。
『いいから、部屋番号は?』
私の躊躇いを打ち消そうとする彼の声。
「……502号室。だけど……」
本当はあなたに会いたい。今、すぐに。
だけど……
「これ以上の我が儘は……罰が当たる」
消えそうな声が喉を掠める。
『誰が罰を当てるんだ? 今の亜紀に罰を当てる奴は、神だろうと俺が蹴り飛ばしてやる!』
今泉さん……
堪えていた涙が一粒、頬を伝って流れ落ちた。
駄目だよ……今泉さん。
私達は何も捨てない、何も奪わない、そして多くを望まない。
「今泉さん……ありがとう。でも、本当に大丈夫だから。……今夜は家族の所に帰ってあげて」
心を押し殺し、震える唇が途切れ途切れの言葉を並べた。
『……もう、遅いよ。今、亜紀の部屋の前に着いた』
「えっ!? ……」
『言ったろ? 亜紀が呼べばいつでも駆けつけるって。
正直に言ってごらん。俺に会いたい? 会いたくない?』
熱い血が身体中を駆け巡る。
逸る鼓動に急かされ、扉へ駆け寄った。
小さなレンズから覗き込むと、扉一枚隔てた向こう側にはスーツ姿の彼。
「今泉さん……」
彼の姿を見た瞬間、涙腺がプツンと切れたように溢れ出す涙。
『言って……亜紀』
目に映る彼の唇の動きと重なり合う、優しい囁き。
言ってもいいの? ……許されるの?
鍵を開け、ゆっくりと扉を開いていく。
目の前に立つ彼は、偽りのない穏やかな笑みを私に向けている。
ああ……違う……そうじゃない。
どんなにこの関係の中に誠実さを追い求めても、足を踏み入れてしまった時点で「関係」に誠実さなど存在しない。
私達もあの二人と同じ、初めから歪んだ関係。
むしろ、心の繋がりに誠実さを求めようとすること自体が、一番の罪なのかも知れない。
「会いたかった……あなたに」
涙声でそう言って、引き寄せられるように彼の腕の中に飛び込んだ。
***
ベッドに並んで座る二人。
「これ、亜紀にプレゼント」
彼はそっと私の手を掬い、目尻を下げた。
「え……プレゼント?」
手のひらにちょこんと乗せられた、長さ5㎝ほどの小さな赤い布製の袋をまじまじと見つめる。
中身の様子を窺おうと、遠慮がちに指で突いてみる。
何だろ……小さい粒が入ってる。
感触からして、硬い小さなものが幾つも入っているように思える。
「中に、フェンネルの種が入ってる」
「フェンネル? ……って、夏に咲く黄色い花の?」
袋を密封している紐を指で摘み上げ、不思議そうにそれを見つめる私。
「そう。ハーブとして香り付けにも使われるフェンネルは、悪魔や災いから身を守るといわれているんだ。だから、それを身につけてるといい。俺からのお守りだ」
「フェンネルって魔除けになるんだ。よく知ってるね」
「んん? 実は柳さんが教えてくれた。ハーブには古代から神話や学名の由来があるらしい。ローズマリーは悪霊を鎮めるとか、レモンバームは不老長寿だとか」
「へぇー。面白いね。だけど……もっと早くプレゼントしてくれたら良かったのに」
手のひらにある可愛らしいお守りを優しく撫でて、冗談交じりに「ふふっ」と笑う。
「おいおい、そんな身も蓋もないことを言うなよぉ。……要らないならいい。その辺の花壇に撒いとくから」
眉を寄せ、拗ねた顔で口を尖らせる彼。
「うそだってばぁ。……可愛いお守り。嬉しい」
口元を緩め、彼の背中に両腕を回して胸元に顔を埋めた。
「週末は、予定通り田舎に帰るんだろ?」
彼は甘える私を抱きしめて、耳元に静かな声を落とす。
「……うん」
「ごめんな。何もしてやれなくて」
「ううん。十分すぎるほどして貰ってる。それに……離れてても見守っててくれるから。だから大丈夫……」
抱きしめられる身体に、彼の優しさが流れ込む。
こんな状況であるにもかかわらず、あなたに会いたくて仕方なかった。
こんな状況だからこそ、あなたの優しさに溺れてしまいたくて気が狂いそうだった。
今こうして彼に抱きしめて貰わなければ、きっと絶望の闇に精神が食い尽くされてしまうから――
あなたはそれを知っていて、どんな時も躊躇わず私に手を伸ばしてくれる……
「亜紀……」
彼の温かな唇が、慈しむように私の唇を塞ぐ。
私は彼の腕の中でフェンネルの種を握り――「ありがとう」。
優しい口づけを受けながら、心の中でその言葉を繰り返していた――。
コメント
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亜紀さんの胸の内がとても丁寧に描かれていて、特に「会いたかった」と扉を開ける瞬間の解放感に胸が詰まりました。フェンネルの種のお守り、魔除けという彼の想いも素敵。お互いを想いながらも歪な関係に自覚的な、その距離感の描き方が本当に繊細で…。次が気になります。