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うわ、重い……でもいい意味で、です。 麗香と亜紀の会話から、亜紀が抱えてる苦しみがじわじわ伝わってきました。特に「まだ序章に過ぎない」って直江先生の言葉が、読んでるこっちにも刺さる。楓の真意もまだ見えてこないし、展開がすごく気になる……。亜紀が強くなってる分、余計に胸が締め付けられました。次も読みます🌙
――金曜の21時。
技師たちが帰宅した健診棟の地下解析室は、不気味なほどに静まり返っていた。
潮が引いたような静寂の中に聞こえるのは、二人の女医の話し声と、電子カルテを操作するタップ音だけ。
「これが重症患者のリスト。ナースには、私がいない間のファーストコールは麗香だって伝えてあるから、よろしくね」
パソコンの前に座る私は、電子カルテからリストアップした受け持ち患者の資料を麗香に渡す。
私の隣で椅子に座り、珈琲を飲む麗香は、タイトスカートから伸びる長い脚を組み、受け取った数枚の用紙に視線を走らせた。
「あら、結構いるわね。危なそうな患者」
「そうなの……結構いるの。ごめんね、麗香に負担掛けちゃって。本当はこんな時期に帰省するのは気が引けるんだけど……」
患者リストに目を通す親友を見つめ、申し訳なさそうに語尾を濁す。
「こんな時期って、重症患者のいない時期なんて一年を通して一日もないじゃない。いいのいいの、私に任せて。困ったことがあったら携帯鳴らすから、口頭で指示だけくれれば大丈夫」
麗香は手にした紙を机の上に伏せ、綺麗に口角を上げて余裕の笑みを浮かべた。
「明日帰ること、お母さんにはなんて言ってあるの? 今までお正月にもなかなか帰省できなかった亜紀が、普通の土日に突然帰るだなんて。驚いてたでしょ? ……実はお兄さんが戻ってること、亜紀には未だに言い出せない状況だし」
「……うん、お母さん驚いてた。『遼一さんと何かあったの?』って、第一声がそれだった。お母さん、遼と私は上手くいってるって思ってるから……離婚しようと考えてるなんて聞いたら、腰抜かしちゃいそう。離婚なんて滅多にない田舎町だから」
俯いて、声が漏れるほどの大きなため息を床に落とした。
どんなに母を驚かせてしまおうと、悲しませてしまおうとも、離婚の意思は伝えなければいけない。
取り返しがつかないくらい拗れてしまう前に、世間一般の娘らしく母親に亭主の愚痴の一つも言っておけば良かったと、今更ながらに後悔する。
まさか、お兄ちゃんが帰ってきていたなんて……
しかも、お父さんから継いだ借金をさらに膨らませて帰ってきただなんて。
私への生涯の束縛と引き換えに、夫に助けられた私の家族。
田舎で一人暮らす母に心配を掛けまいとして耐えた時間が、実は必然のものだったのだと、苦笑せずにはいられない。
「私が帰っても、きっと兄は私の前に姿を現そうとしない。……負けず嫌いで同級生の誰より喧嘩の強かった兄が、妹に弱い姿なんて見せたくないに決まってる。私の夫に借金の肩代わりをさせたって、きっと自分を責めてるに違いないから……」
胸に重くのしかかる感情。兄妹二人で過ごした幼い頃の記憶が蘇り、現状の酷薄さに胸が苦しくなる。
「……でも、お兄さんに会うために帰るんでしょ? 亜紀の離婚とその後の借金の行方。家族三人で話し合わなきゃ解決しない」
麗香は眉根を寄せ、胸の奥から声を押し出すように言う。
「うん、分かってる……」
「旦那の浮気のことまでは言うつもりないんでしょ? ……勿論、お腹の子供のことも」
「そんなこと、言えるわけがない。……そんな常識外れの不埒な話、母の心臓に障る」
「……うん、そうよね。楓のことなんか言えるはずがないよね。……亜紀、楓の話なんだけど」
少し間を置いて、麗香が静けさの中に慎重に声を落とした。
次第に、彼女の眉間に刻まれていく縦皺。
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「……うん、何?」
私は身構え、顔を強張らせて小さく頷いた。
「悠希から聞いた話なんだけど……あの女狐、今日付けで退職届を出したらしいわ。無断欠勤のまま突然の退職願。オペ室ではいろんな噂が飛び交ってるらしいわ。契約違反で他の病院で働いていたとか、何かの事故に巻き込まれてるんじゃないかとか、あと……」
突然、思いとどまるように口の動きをピタリと止めた麗香。
彼女の言葉を待つ私は、首を傾げ、訝しそうに彼女を見つめる。
「……オペ室の中に、彼女と特に親しいスタッフがいるのかも知れない」
「え? ……どういうこと?」
「妊娠二か月……誰かが、オペ室でその言葉を漏らしたそうよ。それも、亜紀の旦那の耳に届くように」
麗香は声を極力潜め、苦々しく口を歪めた。
「遼の耳に届くように!? ……それでどうなったの?」
「オペに入る前の手洗い中に出た会話らしいけど、旦那はそんな会話にはまるで興味のない様子で、さっさと手を洗ってそのままオペ室に消えていったそうよ。悠希は違うオペに入るところだったから、それ以上のことは分からないって」
「そうなんだ……」
当事者でありながら、飄々と部外者面して手洗いを続ける彼の姿が目に浮かぶ。
まさか、こんなに早く噂になるなんて……。
自分は姿を消し、直接手を下さず、友人を使って私を追い込もうというの?
「……どんなに澄ました顔をしていたって、遼だって内心は動揺したはずよ。そのスタッフ、きっと楓ちゃんに頼まれたんだわ……自分が退職したタイミングで噂を流すように」
私はパソコンのキーボードに視線を落とし、喉の奥から低い声を絞り出す。
「妊娠の事実は知っていても相手の男までは知らない友人が、楓の退職を機に口を滑らせたか……それとも楓の差し金か……。
どちらにしても、人間はより面白く、より不幸な話に飛び付きたがる。そこに色恋沙汰が絡めばさらに好奇心が疼いて、それが事実であろうとなかろうと、伝言ゲームのように病院中に知れ渡る」
麗香は言葉を連ね、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「……ええ、そうね。院内での不倫。しかも、医師の夫婦関係に割り込んだ看護師が妊娠。
……こんな面白おかしい話はないわ」
私はガラス越しに見るように顔を歪め、心の内で自嘲する。
「もし旦那を手に入れるための策略だとしたら、旦那にとっては逆効果じゃないの?
いくら自分の子供を孕んだ愛人でも、自分を陥れようとする女の所に誰が行きたいと思うの? 地位と名誉が何よりも大事な男よ?
自分の名を汚す楓を許さないんじゃないかしら……」
麗香は眉根を寄せ、腑に落ちない顔をして首を傾げた。
「あの子にとっては、遼に許されようが許されまいが関係ないのよ……。あの子は、最初から自分はいつか切り捨てられると分かってた。もし彼から嫌われるのを恐れてるなら、あんな形で家に乗り込んでは来ない。……楓ちゃんの目的はただ一つ。遼から私を引き離すことだけよ」
「亜紀を引き離す? ……噂を広めて亜紀を晒し者にする気ね。周囲から受ける憐れみの視線に耐えきれず、病院から逃げ出す亜紀を高みの見物しようというの? ……なんて恐ろしい娘っ。愛人の分際で正妻を辱めて追い出そうなんて、身の程知らずもいいところだわ!」
麗香は腕を組んだまま拳を握り、火を吐くような凄い剣幕で怒りをぶちまける。
「麗香、病院のことはもういいの……」
「えっ?」
「離婚を決意したんだもの。当然、この病院から姿を消すことも考えてた。研修医時代からお世話になったこの病院と、親友の麗香と離れるのは淋しいけど……」
「何で亜紀が……。出て行くべきなのは、節操なしの馬鹿な男の方なのに……」
麗香は、付いた火の粉を振り払うような淋しげな声で言い、なおも何か言いたげに唇を引き結ぶ。
「実家から戻ったら準備を進める。離婚と次の就職先。それと、住む場所も探さないと……いつまでもホテルに泊まってはいられない」
大きなため息をつき、思い出したように画面に映る電子カルテに目を向ける。
「新しく住む場所か……私も、あの家を飛び出して亜紀と一緒に暮らそうかな。娘付きだけどいいでしょ?」
椅子に仰け反り、大きく背伸びをする親友。
「なによ、突然。……麗香も旦那と何かあったの? お義母さんに嫌み言われたとか?」
私はキーボードを打ち始めた指を再び止め、麗香の顔を窺う。
「……ううん。私の心の問題。……調子狂ってんの。バランスが……」
麗香は寝そべるように背もたれに体重を預け、両腕を伸ばしたまま天井を見上げている。
「調子狂ってる? バランスって……心のバランスが? ……どうして?」
私は首を傾げ、ぽつりぽつりと麗香の言った言葉を繰り返す。
「んん~。……最近お遊びが楽しくないの。
蛍の君と亜紀の関係を見守ってたら、馬鹿なお遊びもそろそろ卒業しなきゃって刺激されたのかも」
「ええっ!? 麗香が落ち着く日なんて訪れるの? 年中無休で恋多き女が……どうしたの?」
「失礼ね。やっと大人になれたってことよ。……強くなった亜紀を見てたら、そう思えたのっ。
……素敵な人ね、今泉さん。彼に支えてもらってるんだもん。今は先が見えなくても、きっと自分の力で抜け出せるわ。今の苦しみから」
麗香はゆっくりと体を起こし、目を細めて私に柔らかな笑みを向ける。
「……うん、ありがとう」
私は小さく頷き、彼女に微笑みを返した。
今は先が見えなくても……
『どんなに私の存在を否定しても、この子から目を背けることはできない。あなたは、私の所に来るしかないのよ』
――あの日、楓が最後に投げつけた言葉が頭から離れない。
私を病院から追い出す目的で楓が不倫の噂を流すかもしれないと、あの夜から覚悟はしていた。
だけど……
大きな疑問が残る。
自分も姿を消した病院から私を追い出すことに、何の意味があるの?
『あなたは、私のところに来るしかないのよ』
――その言葉の真意が掴めない。
遼が自ら私と別れ、楓のもとに行かなければならない、何か大きな切り札を持っているということなの?
『これはまだ、序章に過ぎないよ……』
――直江先生の言葉が頭の中でこだまする。
「……亜紀? どうしたの? さっきから手が止まってる。早く週末分の指示出してご飯食べに行こうよ~。お腹空いた~」
麗香が机に頬杖をついて、電子カルテの画面を覗き込む。
「あ……うん、ごめんごめん。この指示が最後だから」
目が覚めたような顔をして、慌てて画面に集中する。
辺りの音をすべて持ち去られたような静けさが漂う部屋には、私が叩き出すタイプ音だけが鳴り響いていた――。