テラーノベル
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「あっ、驚かせてごめん、ごめん。
亜紀さんの香りが素敵だったから、つい」
「……つい?」
私は目の前で飄々と笑う彼を睨みつけ、口を真一文字に結んだ。
「引き止めちゃってごめんなさい。
患者さんを待たせちゃ駄目だよねぇ。検査、頑張ってね。
はい、行ってらっしゃい」
彼は扉を開け、にっこりと微笑んだ。
「……」
私は警戒心を剥き出しにしたまま何も言わず、逃げるように廊下へ飛び出した。
背中に突き刺さる、不快な視線。
何なの、あの人!
麗香の知り合いだからって、遠慮していれば!
最低!
最悪!
一発ぶん殴ってやれば良かった!
彼の余韻を振り払うように、耳朶を何度も手のひらで擦る。
あれが、彼の口説き方なの?
まだ私をからかうつもり?
何が目的?
「あの人、絶対まともじゃないわ!」
この上ない怪訝な顔のまま、私は地下へ続く階段を駆け下りた。
高速道路沿いにあるホテルの一室。
ベッドに横たわる私は、汗が乾きかけた背中を彼の胸に預け、後ろから回された腕を頬へそっと引き寄せた。
数分前まで乱れていた呼吸もようやく落ち着き、背中から伝わる愛しい彼の鼓動を静かに感じている。
現実を忘れさせてくれる、二人だけの穏やかな時間。
私を包み込む彼の腕の重みが心地いい。
重ね合った肌から伝わる、確かな想い。
大切にされているという幸福感。
――今泉さん……大好き。
その言葉を心の中で唱えるだけで、胸の奥がきゅっと甘く疼く。
言葉なんて、もう必要ない。
彼の腕を優しく撫で、その手のひらへそっと口づけを落とした。
「眠い?」
耳元に彼の吐息が触れる。
「ううん。どうして?」
瞼を閉じたまま、彼の手のひらへ頬を寄せた。
「亜紀は、眠くなると後ろから抱きしめられたくなるだろ?」
「ん? そうかな。……でも、そうかも。
後ろから抱っこされるの好き。
すごく落ち着くんだもん」
私は枕から少し顔を上げ、彼の二の腕から指先へ、小さく「チュッ、チュッ」と甘えるように口づけた。
「甘えん坊な亜紀。
そうか、甘えたくなると後ろ抱っこをしてほしくなるんだな」
今泉さんは柔らかな声でそう言うと、私が握る手のひらで優しく頬を撫でた。
「甘えん坊だね、私」
「うん。
今日は特に甘えたがりだな。
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感じてる顔も声も色っぽくて……
すごく可愛かった」
「ええっ……もう。またそんなこと言って。
……イジワル」
先ほどまで快感に身を委ね、声を上げていた自分を思い出す。
一瞬で耳まで真っ赤になり、私は彼の腕をぺちっと軽く叩いた。
「イジワル? 何が?
亜紀、こっち向いてよ」
彼はくくっと喉を鳴らし、私の顔を覗き込む。
「何でもない。
駄目、まだこうしていたいのっ」
「どうして?
俺は亜紀の顔が見たいのに。
ほら、こっち向いて」
今泉さんは、振り向くまいと腕にしがみつく私の身体をひょいと抱き寄せ、いとも簡単に自分の方へ向かせた。
「見えた、見えた。
甘えん坊で恥ずかしがり屋の亜紀の顔。
そんな困った顔しなくても、これくらい恥ずかしくないでしょ?
さっきは、あんなに乱れた姿を見せてくれたのに」
「うっ……
やっぱりイジワルだ」
悪戯好きな少年のような笑みを浮かべる彼を上目遣いで見つめ、私は今度は彼の額をぺちっと軽く叩いた。
普通の恋人同士のようにじゃれ合う時間。
――不倫。
その現実を、永遠に忘れてしまいそうになる。
私が甘えん坊?
こんなふうに、素直に甘えたことなんてあっただろうか。
愛しさと切なさが胸を締めつける。
想えば想うほど苦しくなるのに、一緒にいる時間は喩えようもない幸福で満たされていく。
……私は、こんな感情を知っていただろうか。
もしかしたら、不倫というこの状況だからこそ知り得た感情なのかもしれない。
でも、これだけは分かる。
人は、愛され方で愛し方が変わるんだ――。
私は彼の大きな胸へ頬を寄せ、そっと目を閉じた。
「今泉さんの匂いが好き……」
そう囁いた瞬間、
――『匂いが違うんだ。以前はこんな熟した香りはしなかった』
昼間、あの男に言われた言葉が脳裏をよぎった。
「女の匂いが変わるって、何なんだろう……」
考えるより先に、その言葉がぽつりと口をついて出た。
「ん? 女の匂い?」
「あっ、えっと……
香水とかじゃなくて……その……
よく分からないんだけど、『美味しい匂い』って何なのかなって……」
しどろもどろに言葉を並べる私を、今泉さんはじっと見つめる。
そして、にっこりと微笑むと、
「なに?
亜紀の美味しい匂いを嗅ぎつけた雄でも現れたの?」
そう言って私の首筋へ鼻先を寄せ、わざとらしく「くん、くん」と匂いを嗅いだ。
コメント
1件
いやあ、もう冒頭の「匂い」の伏線が効いてますね。昼間のあの男のセリフが、今泉さんとの甘い時間のなかで不意に蘇る瞬間がすごく生々しくて、亜紀さんの揺れる心情が伝わってきました。不倫という関係だからこそ知り得た感情——「愛され方で愛し方が変わる」ってフレーズ、胸に刺さります。この後どう転ぶのか、めちゃくちゃ気になります!