玄関の扉を開けた瞬間、家の空気がまとわりついた。湿った畳の匂いと、煙草の残り香。昼間のトイレで浴びた冷たい笑い声がまだ耳に残っているのに、ここはそれ以上に重苦しい。
「遅い」
居間から聞こえたのは姉の沙耶香の声だった。苛立ちが隠されてもいない。
靴を脱ぐ暇もなく、後ろから怜央菜に肩を掴まれる。
「何やってんの? とろすぎ。さっさと動けないの?」
力任せに突き飛ばされて、俺は廊下に膝をついた。
熱湯の痕がまだ残る皮膚にじりっと痛みが走る。
「おい、灰皿」
兄の晃司がリビングから煙草を咥えたまま呼んだ。
反射的に、俺は這うようにして近づき、正座する。頭を下げる。
煙草の火が視界にちらつくたびに、昼間の刃物の冷たさが蘇った。
「なぁにその顔。泣いてんの?」
颯馬の幼い声が飛んでくる。面白がるような笑い混じり。
俺は慌てて袖で目を拭った。
「……泣いてない」
声は掠れて、嘘だと誰の耳にもわかっただろう。
晃司が煙草を押し付けようとする動きに、俺の肩がびくついた。
「は? 逃げんのかよ」
鋭い声が飛ぶ。
「ご、ごめんなさい……」
自分でも嫌になるくらい自然にその言葉が口をつく。
「謝るだけか。つまんねーな」
灰をわざと俺の髪に落とされる。
焦げた匂いが立ちのぼり、吐き気がこみ上げる。
――死にたくない。
昼間、刃物を押し当てられたときに喉から漏れた言葉が、ふいに頭をよぎる。
なのに、今ここでは違う。
――俺が悪い。生きてるから悪い。謝れば少しはマシになる。
自分の中で声がぶつかり合う。
「ほら、立って」
怜央菜が冷たい声で言う。
立ち上がろうとすると足元がふらつき、壁に手をついた。
剥がされた爪の先が壁紙に触れて、激痛が走る。
「……っ」
声を殺して耐える俺を見て、姉たちは笑った。
「ほんと、見てると飽きないよね。壊れてんのに壊れきらない」
沙耶香の言葉に、晃司がうなずいた。
「死ぬ勇気もねえくせに、生きてんのが笑えるわ」
胸が締めつけられる。昼間と同じ言葉。
――死ねばいいのに。
トイレで浴びた嘲笑と重なり、頭がぐらぐらする。
「俺が……悪いから……」
気づけばまた口から零れていた。
「全部、俺が……」
その瞬間、怜央菜が俺の頬を平手で叩いた。
「は? 何それ。誰が聞きたいって言ったの?」
乾いた音が響き、視界が揺れる。
笑い声。煙草の煙。
その中で、俺はただ立ち尽くす。
――死にたい。
――死にたくない。
相反する声が胸の奥で混ざり合って、どちらも消えない。
ただひとつ確かなのは、「ここには逃げ場がない」ということだけだった。
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