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ビルの地下にあるショットバーで、私は約束の時間を過ぎても姿を見せない親友を待っていた。
麗香、遅いなぁ……まだ仕事終わらないのかな。
カウンターに置いた携帯電話の時計へ目をやり、小さくため息をつく。
そしてグラスに浮かぶ氷を見つめ、口角を落とした。
今泉さん……
そろそろ出張から戻る頃なのに、まだメールくれないの?
再び携帯電話へ視線を移し、声が漏れるほど深いため息をついた。
「ごめんねー、亜紀! ちょっと情報収集してたら遅くなっちゃった」
残っていた烏龍茶がほとんど透明な色に変わった頃。
親友は少し濡れた長い黒髪を額からかき上げ、深紅の唇を引き上げながら「ごめん!」と手を合わせた。
「お疲れさま。……あれ? 何で濡れてるの?」
麗香の黒いコートについた水滴を見つめ、私は首を傾げる。
「突然、雨が降りだしたのよ。天気予報を確認するの忘れたわ」
麗香は脱いだコートの水滴をハンカチで拭い、私の隣に腰を下ろした。
「亜紀は何を飲んでるの? 水みたいな色してるけど」
「烏龍茶。水になったのは、誰かさんが三十分以上も待たせたからでしょ」
グラスを覗き込む親友へ、皮肉っぽく言った。
「烏龍茶? どうしてノンアルなのよ」
「だって、この後また病院に戻るんだもん。早く片付けたい仕事があって」
「なにそれー、つまんない。また教授に余計な仕事を押し付けられてんじゃないの?
上手に手抜きしなさいよ。切りがないから」
麗香は呆れたようにため息をつき、赤ワインを注文した。
「そう言えば、来月から赴任してくる消化器内科のドクターの話は知ってる?」
ワインを一口飲んだ麗香が、声を弾ませながら話題を振った。
「消化器内科?……さぁ。来月からって、こんな中途半端な時期に異動してくるの?」
「そうみたい。噂によると、かなりのエリートらしいわよぉ。詳しい事情は分からないけど、どこかの名門大学病院から引き抜いて来たらしいわ」
「どこかの名門大学病院って、どこ?」
いつも以上に目を輝かせる親友を見つめ、私は首を傾げた。
「だから、まだ詳しいことは分からないのよ。今日の午前中、院長室からその人が出て来るのを見た看護師の話だと、“須賀健斗”似のイケメンなんだって!」
「須賀健斗?……誰それ」
頬に手を添えて「うふっ」と可愛らしく微笑む親友を見つめ、私はさらに首を傾げた。
「誰って……まさか、“すがけん”を知らないのぉ!?」
「うん。知らない」
「……信じられない。今をときめく国宝級のイケメンを知らないなんて。亜紀の芸能界オンチにもほどがあるわね……」
麗香は美しい二重瞼を瞬かせ、呆れ返ったような視線を向けた。
「悪かったわね。芸能界オンチで。……もしかして、遅れた理由の情報収集って、そのドクターの情報収集じゃないでしょうね」
「ピンポーン。大当たりー。だって、とっても大事な情報収集じゃない?」
眉間を寄せる私を見つめ返し、麗香は悪びれる様子もなく満面の笑みを浮かべた。
「どこが大事な情報なのよ! 自分から誘っといて……病院に戻って仕事していい?」
「えーっ! ダメダメ! 一度白衣を脱いで外に出たんだから、もう仕事なんてしなくていいのよ。
今日は、亜紀と蛍の君の話をゆっくり聞くために誘ったんだから」
「……はい?」
「亜紀だって私に話したくて仕方ないんでしょ? ついに想いを寄せる人と結ばれたのに、浮かれ話を誰にもできないなんてつまんないでしょ?」
「……別にそんなことはないけど」
「もぅ、無理しちゃって。私の前なら、いくらでも惚気ていいのよ?」
麗香は私の肩に手を置き、顔を覗き込んでいかにも嬉しそうに笑った。
「……」
「何よぉ。その面白くないって顔は」
「……だって、麗香が揶揄うから」
「あら。揶揄ってなんてないわよ。
亜紀のモヤモヤした気持ちを解放させてあげたいだけ。……で? その夜から三日が経った今は、どちらの気持ちのほうが強いの?」
麗香はグラスをゆっくりと揺らし、柔らかな口調で問いかけた。
「えっ……どちらの気持ちって、何が?」
おかわりした烏龍茶の微かな苦みを感じながら、麗香の横顔へ問い返す。
「最後まで抱かれなかった淋しい気持ちが強いのか、それとも旦那に対する罪悪感のほうが強いのか……どっち?」
「ああ、そのどっちってことか……」
私は気まずそうに口をつぐんだあと、
「……淋しい気持ち」
と、小さく答えた。
そんな私を見つめ、麗香はにっこりと微笑んだ。
「そう。ならいいじゃない。一時の気の迷いじゃなくて。
自分の快楽は後回しにする男か……面白いじゃない。
……たぶん、彼は亜紀に逃げ道を作ってくれたのよ」
「逃げ道を作ってくれた……?」
「そう。彼に触れたあと、もし亜紀が感情に流された一時の気の迷いだったと気づいても、一線を越えていなければ罪の意識は軽くなる。
亜紀が後悔した時、罪悪感から逃げられる道を残してあげたかった。……まあ、私の推測だけどね」
「……そうなのかな」
「だって、初めてを奪う一瞬が、一番興奮する瞬間なのよ?
それを我慢できるなんて……
まさか蛍の君、不能じゃないわよね?」
麗香は迫るように私の顔をまじまじと見つめ、声を潜めた。
「ちょ、ちょっと。何言い出すのよ。
……でも、それはないと思う。ちゃんと……その……反応はしてたから……」
周囲を見渡した私は、さらに声を潜めて返した。
「あらら。恥ずかしがってる割には、確認に抜かりはないわねぇ。
じゃあ、次こそ安心して結ばれて来なさい」
「安心してって……」
三日前の情事を思い返し、顔を赤らめる。
「いい男じゃない、今泉さん。
きっと彼なら、今まで見えなかった世界を見せてくれるわよ。……色んな意味でね」
そんな私を見つめ、麗香は満足そうに微笑んだ。
コメント
1件
わあ、麗香の鋭さが光る回でしたね。亜紀が「淋しい気持ち」と素直に認めた瞬間、思わず胸がぎゅっとなりました。一線を越えずに逃げ道を残してくれたという麗香の分析、なるほどなあと納得。でも「不能じゃない?」って冗談混じりに探りを入れるところ、親友ならではの距離感で微笑ましかったです。今泉さん、どんな男前なのか続きが気になります!