テラーノベル
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「今まで見えなかった世界か……」
私は流れ落ちるグラスの水滴を指でなぞり、誰に聞かせるでもない小さな声でぽつりと呟いた。
「あのさ、変なこと聞いてもいいかな……」
何度もグラスの水滴に指を滑らせ、躊躇いながら声を漏らした。
「いいわよ。なぁに?」
「そのぉ……麗香はあるの? あの時に……その……」
「……は? なにもじもじしてんのよ」
焦れったいとばかりに、麗香は私の二の腕を人差し指で突いた。
「だからね、麗香はイッた経験があるのかなーなんて、聞いたりして……」
「それって、オーガズムのこと?」
「……うん。あの、ごめんね。変なこと聞いて。答えたくないなら、答えなくてもいい――」
「そりゃあるわよ。もちろん」
狼狽える私を気にも留めず、麗香は当然のように言い切った。
「あっ……」
自分で聞いておきながら、思わず間の抜けた声が飛び出した。
「……もしかして。蛍の君とのエッチで初めてオーガズムを知ったの……!?」
麗香は目を丸くして声を上げた。
「ちょっと!……麗香ったら、声が大きいよ」
慌てて親友の腕を引っ張り、顔から火が出そうなほどの恥ずかしさに肩を竦めた。
「もう。麗香は本当に勘が鋭いんだからぁ」
他の客と会話をしているバーテンダーをちらりと見て、さらに声を潜める。
「あら、図星なの?
つまり、既に知らない世界を教えてもらったってわけね。
そっか。初めてだったんだ。……で? どうだったの。遅咲きの感想は」
麗香は頬杖をつきながら、興味津々な笑みを向けてきた。
「どうだったって……頭が真っ白になって、よく覚えてない」
「ふぅーん。頭が真っ白で覚えてないかぁ。
まぁ、そのうち自分で快感を高められるようになるわよ。要はイメージ。亜紀にその素質があるならね」
自分で快感を高める素質……?
今泉さんも、確かそんな話をしてたな。
「彼がね、段々と絶頂に慣れていけるって、そう言ってた」
両手で握ったグラスの氷へ視線を落とし、まだ知らない世界への困惑を呟いた。
すると突然、カウンターに置いていた携帯が振動を伝えた。
私は意識をそちらへ向け、待ち構えていたかのように携帯を掴んだ。
「メール? 相手は旦那? それとも……」
「……うん、今泉さんからメール。出張から戻ったみたい。新幹線を降りたから……今から自宅に帰るって……」
待ちわびていた彼からの文字を目で追い、途切れ途切れに答えた。
新幹線を降りたってことは……
近くにいるんだ、今泉さん……。
先を急いでいるのか、長旅で疲れているのか。いつもより簡潔な文章を読み返し、ため息が溢れた。
「ねぇ、今泉さんは名古屋駅にいるんでしょ? ここから二駅なんだから、ほんの少しでも会えばいいじゃない」
「えっ……そんなの、急には無理だよ。出張から戻ったんだから、家族が待ってる自宅に急いで帰らなきゃ」
一瞬、麗香に心を読まれたのかと思い、声が上擦った。
「……なるほど。家族が待ってる自宅に急いで帰らなきゃ……ねぇ」
麗香は片手で頬杖をついたまま私を見つめたあと、ワイングラスへ視線を移して口元を緩めた。
「どうして笑うの?……私、何か可笑しなこと言った?」
私は親友の横顔を覗き込み、眉間に深い皺を刻む。
「全く、素直じゃないんだから。
亜紀が言った言葉。物分かりの良い女の言葉に聞こえるけど、ちゃっかり嫉妬心が含まれてて……面白いなって思っただけ。
図々しい私の口からは出ない言葉だから」
「……別に嫉妬心なんて込めたつもりはないけど?」
目を細め、低い声を落とした。
「そう? 気を悪くしたなら謝るわ。ごめん」
「気を悪くしたわけじゃないけど……」
麗香に指摘されると、本当にそうなのかと思ってしまう自分がいて、反応に困る。
「ところで亜紀、まだ時間は大丈夫? 病院に戻るんでしょ?」
麗香は腕時計へ視線を移しながら尋ねた。
「あー、そうだね。そろそろ病院に戻るよ。雨が降ってきたなら、早く仕事終わらせて帰りたいし」
「そうよね。また次はゆっくり呑みましょ。もちろん、ノンアル禁止よ」
麗香は微笑み、残りのワインを飲み干した。
「うん。分かった」
笑顔で返しながらも、私の胸の奥には、先ほど麗香に言われた言葉がつかえていた。
大通りを囲む街灯と行き交う車のライトが、月を隠した雨空を灰色に映し出す。
うつ向きながら病院へ向かって歩く私の耳には、コンビニで買ったビニール傘に降り落ちる、淋しげな雨音だけが響いていた。
「はぁ……」
麗香と店の前で別れてからというもの、深いため息ばかり重ねている。
白い大きな建物が、綺麗に剪定された木々の隙間から顔を覗かせる頃、私はブーツに跳ねる水飛沫から前方へと視線を移した。
ふと視線を向けた先には、二つの傘を並べて歩く男女の姿。
グレーのスーツに、焦げ茶色の傘……
「今泉さん……」
後ろ姿が今泉さんに似ている気がして、人違いだと思いながらも、無意識に彼の名を口にしていた。
似ていると感じたのは、ほんの一瞬だけだった。
同じなのは高い身長だけ。
体つきも、歩き方も、まるで違う。
既に重症だな……私。
傘で顔を隠し、作り笑いを浮かべた。
今泉さん、もう自宅に着いたのかな……
奥さんの待つ家……
二人の息子さんが待つ家……。
家ではどんな旦那さんで、どんなお父さんなのだろう。
奥さんはどんな女性なのだろう……。
私が決して踏み入れてはいけない、彼の守るべき、彼の帰るべき、たった一つの大切な城。
「知りたい」と願うだけのこの想いも、嫉妬心なのだろうか。
身勝手で浅はかな、女の独占欲なのだろうか――。
コメント
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みぃです🤍🥀 第74話「疑念(2)」、読み終えました。 麗香に「初めて知ったんでしょ?」ってズバリ言われた時の亜紀の慌てよう、すごくリアルでした…。自分から聞いておいて、図星を突かれて真っ赤になるの、わかる気がする。それに、今泉さんからのメールを受け取った後の「家族が待ってる自宅」という言葉に込めた複雑な感情、そして最後の雨の中の後ろ姿。嫉妬なのか独占欲なのか、自分でも整理できないまま歩く亜紀の胸の内がひしひしと伝わってきました。 重くて切ない、でも目が離せない展開、続きも気になります…🌙
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