テラーノベル
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#海辺の町
#センシティブ
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澄江は札を胸の前で持ち、しばらく声を出さなかった。
離れの中は静まり返っている。外から聞こえるのは、波が石に当たる音だけだった。子どものころ、ここで膝を抱えて座っていた自分の耳にも、たぶん同じ音が届いていたのだろうと、澄江は思う。
「昔、私は」
澄江はようやく口を開いた。
「この場所で、ただ待っていました。誰かが迎えに来ることを。帰ってもいいって言ってくれることを」
啓介の手が、無意識に強く結ばれる。
澄江は札を見る。
にじんだ字の名残りがある新しい清書に、自分たちがたどり着いた言葉が重なっていた。
「み」
一拍置く。
それだけで、空気がさらに深く静まる。
「命に終わるまで、じゃない」
ざわり、と場が揺れる。
聞き慣れていた断片が、初めて否定されたからだった。
澄江はもう一度、今度ははっきり言う。
「生きてるあいだ、会いに行く」
最後の音が離れの梁へ届き、そこから皆の胸へ落ちていった。
死ぬまで忘れないという誓いではなく、生きているかぎり会いに行くという願い。
それは、失った人のためだけでなく、残された人が前へ進むための言葉だった。
澄江の目には涙が浮かんでいた。
でも、泣き崩れる顔ではなかった。何十年も持っていた荷物を、ようやく自分の手で床に置けた人の顔だった。
「私は今日、来ました」
澄江が続ける。
「遅くなったけど、会いに来ました」
離れのあちこちで、鼻をすする音がする。
義海は隠しもせず泣いていたし、享佑でさえ目を逸らしていた。
そして住職が、静かに前へ出る。
「では、続けて、寺に残っていた話を申し上げます」
沈んだ船の、本当の役目が語られる番が来ていた。