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#海辺の町
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老住職の声は高くない。
それでも、その場にいる全員が聞き逃すまいとして身を寄せた。
「沖に沈んだあの船は、長いあいだ町で『海賊船』と呼ばれてきました」
住職は言う。
「けれど寺に残る記録と、港に残る断片を合わせると、あれは人と荷を運んだ船でした」
遼征がそっと図面と記録の写しを差し出す。
美恵が年代の照合を示し、昇万が古い書きつけを開く。
「災いのあと、この町では家を失った人、家族と離れた人、岸へ戻れなくなった人が出ました。船は、食べ物や布だけでなく、人も運んだんです」
住職の言葉は続く。
「助かった話ばかりではありません。戻れなかった人もいた。だから大人たちは、子どもにそのまま渡せなかったのでしょう。悲しい名前の代わりに、少し乱暴で、少し面白い呼び名に置き換えた」
海賊船。
それは真実ではなく、悲しみを丸ごと渡さないための言い換えだった。
離れの後ろで、誰かが静かに息を呑む。
啓介は、町の大人たちがずっと口を濁していた理由を、ようやく理解した。
芽生は、澄江の横顔を見た。
澄江は泣いていなかった。ただ、聞いていた。自分が長く恐れていた話を、もう逃げずに。
遙香は審査担当の表情を見逃さなかった。
最初は数字だけを追っていた目が、今は明らかに場の空気ごと受け取ろうとしている。
寺の離れと沈んだ船は、ばらばらの昔話ではなかった。
傷ついた町が、人をつなぎ直そうとした痕跡として、一本の線で結ばれていた。
その線が今、目の前で、また結び直されている。